目で見たものだけがリアルだろ 2024 ③

 初めて出会った文化に対し、そこに迎合するのか拒否するかというある種極端な目で自分を見ていたのは、サブカル的な自意識過剰だったかもしれない。こういった肯定か否定かしかない態度に対して生まれた自分なりの解決策が、自分はやろうとは思わないが他人がやるのは好きにすればいいという、「自分は自分、他人は他人」の考えだった。ただ、これはいうなれば投げやりな個人主義で、他人のことはどうでもいいみたいなのが基本にある考えだった。結果的にこれは他者性の排除を加速させた。

 通ううちに自分が「おまいつ」(アイドルオタクにおける常連を指すスラング)であることを自覚し始めた。自分という人間は、気まずさというか自意識過剰さで飲食店やあらゆる店でも基本的に常連になるのを嫌い、ギリギリのところで通うみたいなタイプだった。そんな自分が自意識過剰さと闘いながらそれを乗り越えておまいつになったのは、間違いなくライブやイベントに行くことが心の底から楽しかったからという一言に尽きる。楽しさを原動力に自分一人でできそうなことは(お金の許す限り)どんどんチャレンジしていった。

 そんな中、意図せず他のファンとかかわる経験があった。他者とかかわる機会が少なかった故、他者に対する悪いイメージは大きくなっていた。しかし、実際に関わったその他のファンの方は自分のイメージしていた敵視すべき他者とはかけ離れた、いたって普通の暖かい方であった。その時、自分の異常さを孕んだトガった思考に気づいた。これは他者性の排除と一人称視点を大切にしてきた結果、「孤独と共に」生きる自分をもはや美談のように特別視していた自分の行為の結果でしかない。他者性を排除していくと自分自身の正しさに基づく判断はあっても、客観の視点が無くなるため、そこへ歯止めが利かなくなりがちである。

 また、最初に挙げた、他者性の排除の原因になったのは他者の語りが自分のイメージ像を上塗りしていくことであった。これは心理学的に解釈すると、他者により自分のイメージ像が傷つけられると感じていたことになるだろう。これでは自分を傷つける存在としての他者のイメージ像が先行し、それ以外の部分について気づく経験を妨げてしまう。試行錯誤の機会の喪失というのは想像以上に問題である。

 また、これは個人の嗜好になるが、人々の孤独、抑圧、哀しみと悲しみ。そういった感情から滲み出る哀愁にはそれ特有の魅力があると思っている。そういった哀愁というかブルースみたいなものに惹かれる自分がいるし、自分自身もそういった感情をブルースにして笑いやウケに昇華していた。精神科医中井久夫氏のエッセイに、ユーモアの極致とは、「惨めさの中にある自分を距離を置いて眺めるということだ」という記述があった。これを見たとき、エルトン・ジョンじゃないけど「"I Guess That's Why They Call It The Blues"(こういうのを人々はブルースと呼ぶのだろう)」と思った。無論、このユーモアの定義はアルコール依存症者が言う、こんな惨めな自分をどうか笑ってくれというブラックユーモアに対して言っていることなのであるが。とにかく、一人でいたがゆえに、自分の孤独を「孤高」と勘違いをし、また、ユーモアで笑いに昇華してごまかし、さらにそのウケに固執し、自己模倣に陥っていたのだと思う。ここで気づけたというのは多少は救いになっていると信じたい。

 トガった思考の極にあるのはそれゆえのユニークさで、もう一方の極にあるのは回避性パーソナリティであると感じる。ユニークさというのもなにかしらを否定する方向に走らなければ良い意味で面白い人間になれるであろう。このユニークさを良い方向で発現させながら、他者をどう受け入れていくかというのが、今後のテーマだ。自分の長所を伸ばし、短所を補っていくこと。

 他者をどう受け入れていくかという点について考えるため、最初に挙げた「自分は自分、他人は他人」という部分に立ち返ろう。このひとはなぜこんなことをするんだろうと思った時に、自分と他人は違うからみたいな表面的な個人主義ではどんどん理解度が低いままの人間になってしまう。心理学は自己理解のため自分に向ける場合や精神分析のような臨床の場で使われる際には有用であると思うが、他者に向けてその人なりの考えについて分析するときに必要なのは、心理学でも寛容さでもなく、「尊厳」であると感じる。尊厳とは、辞書的には「尊く、おごそかで、犯してはならないこと。気高く威厳があること」といった記述だが、これではよく分からないだろう。精神科医の斎藤氏の著書に中井氏による人の尊厳に対して言及している箇所があり、それが尊厳の解釈として個人的に腑に落ちたので引用する。

中井はエッセイに、米英の国旗を焼こうとした子どもを叱って「一国の尊敬を集めているものを侮辱してはならない」と止めさせた教師の毅然とした姿に「ふるえるような感動」を覚えたと記していますが、こういうところに芯があるんだなと感じた記憶があります。

ここでは、人の尊厳の例として「国旗」が挙げられている。このように人には尊いもの、威厳の象徴的なものやこととしての尊厳があり、また、それをみだりに犯してはいけないことを直感的に理解できる。ほか、尊厳を気高さの部分から解釈していくと、例えばペットボトル飲料をわざわざコップに移して飲むという行為にもその人なりの尊厳があるといえる。他人の幸せや楽しみを安易に否定することがなぜいけないか、特にそこにその人の尊厳がある場合はより注意が必要だろう。そういったことがはびこるインターネットの冷笑・嘲笑、誹謗中傷はなるべく距離を置くべきだ。また、最初に挙げた「自分は自分、他人は他人」には大した中身が無かったことがうかがえる。なぜこの人はこういったことをするのかと感じたときに、その人なりの尊厳を考えることができるようになれば、他者のイメージ像はそれまでと変わってくる。もちろんそれが見えてきたうえで自分の尊厳と他者の尊厳のこすり合わせが起こり、その部分で人を選ぶことはあるだろう。ただ、それは自分と違う(コントロールできないものとしての)他者を、どう受け入れ、乗り越えていくかという問題にも繋げられ、他者を肯定するか否定するかという二者択一だけでない選択肢も与えてくれるとも思う。そこで初めてコミュニケーションの機会というものが開かれる。

 他者性を排除して自分で見聞きしたことで物語を構築していくという態度は、推し活全盛のSNS上での総発信時代におけるカウンターとしてスタートしたが、ここ2年くらいやっていく中で、その限界性というべきものが見えてきた。というより、自分の中で、もっと新たな方向へ進んでいきたいという意欲が出てきた。サブカルの自意識過剰さには究極奥義があり、それは自意識過剰な自分すら自意識過剰になれるという部分で、それが今回のような気づきになったんだろう。ただ、それでは振り子のように毎度毎度スタンスを変えるブレのようにも思えてしまう。軸はあるというのを自分自身でも忘れないように今回のような自分の歴史を辿る作業は今後も行っていきたい。

以上