22/05/08(日)~14(土)

22/05/09

・「自己とは常に自己を欺くもの」「決して自分自身を頼みとしてはならない」「自己に対しては絶えず根本的不信を抱かねばならない」
→「自己に関する絶えざる検討と告白とが必要とされる」
 
社会的に良いと自分にとって良いは=とは限らない。自分にとって良いを見つけることのほうが圧倒的に重要。社会的にとっていいこととはその環境、社会構造の中での良いことにすぎない。自らの自由のための生存の美学。社会的に良いことの先には何があるか、その社会構造の中でしか使えない知識を追い続けるとどうなるか。ここ最近、私はいつまでその環境でしか使えない知識をインプットしなければならないのだろうと考えていた。社会に出ること(一般的な会社員になること)はまさにそのような知識を得ては環境を変えて無駄にする、つまり、その知識は自分にとっての経験値ではなくなるような生き方をすることにほかならない。
話はそれるが、漫画「あたしンち」に使い込んでボロくなってきたドリップコーヒーメーカーを買い換えようと思うが、欠けてる部分からコーヒーカップに入ってるコーヒーの容量を確認できたりとなにかと便利、というよりそれに慣れてしまってるが故なかなか買い換えるという行動に踏み切れない、といった話があった気がする。
新しいドリップコーヒーメーカーを買うことは自分にとって良いことか、見た目はボロいがまだ使えて、なおかつ使い慣れてるコーヒーメーカーを使い続けるほうが良いことなのか。それは自分に聞かなければ分からない。新しいドリップコーヒーメーカーを買うのは自分のためなのか、それとも社会規範的なことなのか。自分のためだったらそうやって悩むこともまた人生と言いますか、人間らしいなと感じる。
 
今のバイトに対する考え
今も続いてるのは間違いなく人が良いから
でも最近は金のことばっかになってると感じる
今日はめちゃくちゃ雑談したしそんときは結構楽しかった。バイトしてるってのを忘れるくらいに。もう一個の方のバイトもどちらかというと楽しい部分があるからやれてる。そっちは金稼ぐ目的で入った訳でもないしそういう気持ち忘れないでいこう。むしろ金を稼ぐだけってことに焦点を絞ればバイトなんてやってないかもしれない。
 
22/05/10
私にとって株や投資はまだ1が10になるかもしれないものと言う認識でしかなく、それはギャンブルに対する認識と同じである。名前が変わっただけのギャンブルといった認識のままではなかなかやろうとは思わない。根本的な理解が出来ていないのだろう。そこが変われば、すなわちギャンブルとは異なる部分(再現性のような)を勉強によって見いだせば手を出せるのかもしれない。
 
自分が何かやらなきゃいけない予定がある日にそわそわしてしまうこと、そして何かいつもと違うことをしようとする(例えばあと一時間で始まるからそれまでに今まで先延ばしにしていたことを一気に終わそうとする、しかし、終わるわけがない)のを辞めるためには、いつも同じことをすればよいのではないかと考える。
1つのメソッドとして、今日やったことは明日もやる、というのを試してみてはどうか。やる、やらないの二択のみというのは2進数的な考え方であり、機械的でもっとやり方があるのではないかとも思うが、生活におけるオートメーションは必要であり、第一にやるべきことが明確化されてるとかなり楽になる。そしてなりよりそれが自分にとって良いことなのではないか、という点が推奨できるポイントだ。
↑あと人間は習慣化する生き物だみたいな話あったかも
 
今の自分を構成するカフェに滞在し読書、映画鑑賞、勉強というコアタイムに加え、家でのハロプロ動画を見る(いわゆるヲタ活)、懸垂に関しては毎日続けていい。今自分がなんとなくだけどできることを核にしてそこから触手を広げていけばいい。
 
もちろんできない日もある。そういう日こそ自分でなんとかしたり諌めること、つまり、反省すれば良いだけ。次の日に活かす。そのために毎日の活動の記録付けが必要に感じる。平常心でいること、毎日同じ生活をしていくことは自分を落ち着けてくれる。
 
22/05/11
アトロク 西寺郷太 マドンナ パート1
80年代から90年代へ
ファンタジーからリアルへ ポップからヒップホップへ
マドンナの生き様めちゃくちゃカッコいい
岸本ゆめのちゃんのいつかのインスタでの質問に対する返答
Q.「強くなるには?」→A.「強がるしかない」
そしてそれを地で行くマドンナさんよ
 
・自己を気遣うべしというより根本的な原則
 
初めての哲学的思考
・自分が自分に課す生き方は他人にも進められるくらいのものでなければならない
 
・「配慮するとはどういうことか、………そこから最終的に、自己への配慮は、魂としての自己の本性そのものを知ることに帰着させられる」
「それは、プラトン哲学においては、魂がかつてすでに知っていたことを思い出すことである。」
魂が神的なものと関わっていたときはあったが、現実世界で身体と結びつくことで忘れられてしまった心理を記憶の底から呼び起こす。
 
22/05/13
GD突破。素直に嬉しい。でもここで成功したことに何ら意味はない。あるのは成功したという事実と三週間後に行われる集団面接のあんないメールだけだ。この一週間でエントリーした企業があったが説明会が録画配信で好きな時間に見れるパターンだったので先延ばしにしていたら一定期間内にある程度の時間視聴しないと次に進めないシステムだったらしく、あとはお察し。やっぱ先延ばしに出来るからと言って本当に先延ばしにするとこうなるというか。2020年度から始まったオンライン授業も大方このような一定期間の猶予内に課題やれというシステムだったが、二年のときはほぼ完ぺきにやってて三年の後半くらいからはわりと今回みたいに先延ばしして飛ばすことが何度かあった。違いはやはり習慣化できているかどうか、日常に組み込まれているかどうかだ。去年何度かライブのために遠征をしたが、その結果日常と非日常が分からなくなった。ライブを自分のミスの原因にするのは確実に間違っている。ミスの原因は自分にある。非日常は非日常で良い。去年しきりに地に足を付けていかなければならないと感じていたが、具体的な行動には全くつながっていなかった。解決するわけがない。今なんとなく気分がいいのも調子がいいのもこの構造に気づいて解決できるような行動をとっているからだろう。
 
22/05/14
地に足をつけて生活できているからだろうか。アンジュルムのコンサートは非日常という感覚があまりなく、それでいてリラックスして楽しめた。やはり焦りというのは自分自身から発せられるものなんだろうな。でも今はその焦りという文字のあも出てこないくらい落ち着けている。ライブを非日常だと捉えていた時期はかなり操状態になることが多かった。もちろんその分鬱もやってくる。そういう状況から脱せられたかなと感じる。自分には継続しかない。自分に出来ることからとにかくアクションを起こし何か始めろ。まぁ今はそれを出来ている。だからかなり落ち着いている。日常と非日常という対立構造で捉えないようになったのかもしれない。結局は私の日々であり人生であるのだから日常も非日常もない。私は自分の生活を送るに過ぎない。今は明日も頑張ろうとかではなく、毎日を淡々と、それでいて充実して送れてる。そしてときどき反省して自分の生活をより良くしていく、そういう活力がある。というより、それが普通になってる。焦りも不安もない。あるのは充実感と自分に対する信頼感、そして自分で自分をコントロールする(それが出来るんだという自信)心だ。
非日常はいつもと違うと思いがちだが、それを過ごす自分はいつもと何ら変わりはない。それを勝手に自分自身すら変わってる、いつもと違うと思い込むことで日常と非日常という対立が起こるのではないか。
 
ライブ開演までのタイムマネジメントで暇を潰すという言葉が頭に浮かんだ瞬間にやはり何をしても満たされなくなる。そこで自分がどツボにハマりかけてるな(暇と退屈の倫理学が浮かんだ)と感じ、自分のその場の感性に任せて何となく店に入ったり、今回なら野中神社に参拝するとかいい感じに時間を使えた。これは忘れちゃならない。
 
何かするにあたりロールモデルがいるとかなり楽だ。食事に関しては玉袋筋太郎さんに影響を受けている。彼がマックのドライブスルーでフィレオフィッシュを旨辛にしてくれとお願いしたがそれはできないと断られたという一幕は私の行動にポジティブな効果を与えてくれている。かなり気が楽になった。最近人に何か言われてもあまり考え込まないようになった。こんくらいの気持ちでいい。

5/14 アンジュルム CONCERT TOUR ~The ANGERME~

ハロープロジェクトのファンクラブ先行チケットには「地元枠」がある、とまことしやかに囁かれている。「地元枠」とは、自分の地元(現住所)付近の会場で行われるコンサートのチケットは良い席が来やすい、といったものだが、そんなものを信じている人が居るなら私のチケットを見ろ。この2階席のチケットを。

かのマーガレット・サッチャーが放った「社会などというものはない(there is no such thing as society)」という言葉は人々に強烈なインパクトを与えるとともに彼女の象徴とも言える言葉となった。そして、彼女に倣って言うならば「地元枠などというものはない」。

しかし、2階席でも2列目のセンター寄りだったのでまぁ妥協できるかなといった感じ。というかそうするしかない。そうやって自分を納得させなければコンサートなんて楽しめない。人生だってそうだ。自分の機嫌は自分で取るしかない。前まではとんでもないハズレ席に割り振られた人が「行けるだけいい、コンサートに参加することに意味がある」といった旨の発言をしていることに対して、ただの虚しい言い訳じゃないかと思っていた。しかし、それは自分を納得させるための術だったのだ。もちろん良い席の方が良いに決まってるし、そう考えると先の発言は虚しい言い訳に他ならない。しかし、同じ言い訳にしてもこれを理解してるかどうかでまた意味が違ってくる。私は今回それを理解してコンサートに臨むことができた。

 

仙台に着くなり、ドトールでアイスM(店員の方々がアイスコーヒーのMサイズのことをこう略す。この店では注文の確認の際になぜか「真ん中のサイズですね?」と聞かれた)を頂く。最近はほぼ毎日外でコーヒーを飲んでいる。一番行っているのが歩いて15分くらいのところにあるイオンのフードコートだ。しかし、土日は行かない。なぜなら土日と平日ではハロプロのコンサートとM-lineのコンサートくらい客層が違うからだ。ただ、このコーヒーを飲みながら読書をする習慣は今のところかなりプラスになっている。

今回は仙台サンプラザホールではなくトークネットホールという仙台の市民会館でコンサートが行われる。仙台駅からは割と遠い。この日は青葉まつりという催し物があって人が多いかったのと交通規制があったらしい。昼食には洒落たデパートの地下にある北京餃子という町中華食堂っぽいとこで木須肉にライスとスープセット、餃子を食した。うまいしこれで1000円切るから満足度高い。木須肉(キクラゲと卵の炒めもの)は今自分の中で一番好きな食べ物かもしれない。

この日の店選びにはあまり時間がかからなかった。なぜなら食事における指針ができたからだ。何かをするにあたり、ロールモデルがいるとかなり楽だ。私は食事に関しては玉袋筋太郎さんに影響を受けている。彼がYou Tubeの動画でマックのドライブスルーに行くという企画でフィレオフィッシュを旨辛にしてくれとお願いしたがそれはできないと断られた一幕は私の行動にポジティブな効果を与えてくれている。かなり気が楽になった。最近人に何か言われてもあまり考え込まないようになった。こんくらいの気持ちでいい。あと、彼が出演している町中華で飲ろうぜという神番組も影響を受けている。

最近どこいっても値上げの影響が出てると感じる。たった五十円上がるだけでも我々の購買行動に与える影響は大きい。何より物価は上がっても我々の所得は変わらないままというのがイカれてる。私は来年度からおそらく会社員になるのだろうが日本の未来は決して明るくない。世界が羨むどころか、憐れむ対象になるのかもしれない。ゼミの先生等に海外に出たほうがいいとしきりに言われるがそこまでのやる気は残念ながら持ち合わせてない。

開演まで時間があったのでふらふら徘徊していると、たまたま野中神社という先日のモーニングコンのMCで話に出てきた神社を見かけたので参拝。縁結びの神社らしいがおみくじは末吉。まだ時間はあるが会場へ向かう。

ライブ開演までのタイムマネジメントで暇を潰すという言葉が頭に浮かんだ瞬間にやはり何をしても満たされなくなる。そこで自分がどツボにハマりかけてるな(暇と退屈の倫理学が浮かんだ)と感じ、自分のその場の感性に任せて何となく店に入ったり、今回なら野中神社に参拝するとかいい感じに時間を使えた。これは忘れちゃならない。

会場につき、数分で入場。ポスター目当てでアンジュルムの新譜を購入¥2200。席に着くと、2階席の柵がちょうどステージの淵と被っていて、視界がステージのみにフォーカスできそうな席だったので案外悪くないなと感じた。

コンサートが始まる。地に足をつけて生活できているからだろうか。アンジュルムのコンサートは非日常という感覚があまりなく、それでいてリラックスして楽しめた。やはり焦りというのは自分自身から発せられるものなんだろうな。でも今はその焦りのあの文字も出てこないくらい落ち着けている。ライブを非日常だと捉えていた時期はかなり操状態になることが多かった。もちろんその分鬱もやってくる。そういう状況から脱せられたかなと感じる。自分には継続しかない。自分に出来ることからとにかくアクションを起こし何か始めろ。まぁ今はそれを出来ている。だからかなり落ち着いている。
日常と非日常という対立構造で捉えないようになったのかもしれない。結局は私の日々であり人生であるのだから日常も非日常もない。私は自分の生活を送るに過ぎない。今は明日も頑張ろうとかではなく、毎日を淡々と、それでいて充実して送れてる。そしてときどき反省して自分の生活をより良くしていく、そういう活力がある。というより、それが普通になってる。焦りも不安もない。あるのは充実感と自分に対する信頼感、そして自分で自分をコントロールする(それが出来るんだという自信)心だ。
非日常はいつもと違うと思いがちだが、それを過ごす自分はいつもと何ら変わりはない。それを勝手に自分自身すら変わってる、いつもと違うと思い込むことで日常と非日常という対立が起こるのではないか。地に足を付けるとはこういうことなのかもしれない。せっかくだからとか今日はとことんいつもと違うことをしようといった考えはあんま良くなのかもしれない。自分は自分。そういう生き方をしていると自然とやりたいことも見えてくる。とにかく継続と生活をより良くしていこうというマインド。その活力が今はある。

 

では、ライブの中身の話を。

アンジュにはヲタク感情あんまない。こう言うとネガティブな意味にとらえられちゃうかもしれないがそうではない。ヲタク感情よりもグループ愛が勝つという意味だ。その分アンジュルムというグループのコンサートを楽しめた。前半は最近のアンジュ路線って感じのセトリで終盤の大器晩成→46億年LOVE→愛すべきべきHuman Lifeの流れが最高だった。やはり愛すべきべきHuman Lifeは名曲だ。

コンサートのハイライトは、わかなちゃんmcで今日の弁当ステーキか牛タンだったんだけどじゃんけん負けてステーキになっちゃったら鈴ちゃんが牛タン一枚くれたって話をして、その後に鈴ちゃんが橋迫軍団の団長として団員に牛タンあげるのは当たり前だって言って会場を一気に沸かせた。その流れから橋迫軍団に対抗して竹内軍団が結成されたのもとても面白かった。あと、莉佳子の1人MCで地元気仙沼のおすすめグルメ(バナナジュース)を紹介しようとするも店名を忘れ、地元民しか知らないような店を目印に説明しようとするがほぼほぼ伝わらずに失笑になった部分もらしさが存分に出てて微笑ましかった。

グループの雰囲気もとても良かった。みんなイキイキしてたし元気をもらえた。かわむーのハーフツインテールが可愛かった。平山遊季ちゃんが新人とは思えないくらいグループの一員として馴染んでいる。なんなら三食団子の方が後輩感(というか下っ端感)ある。まぁ微笑ましい。

 

楽しかった。これぞまさしくBIGLOVE、といった感想。

22/05/01(日)~07(土)

この期間は世間一般ではGWなのだろうが大学四年生ともなれば平日も休日もほぼ変わりやしない。ただ人通りがやけに多くてそれだけは気分がいいものではなかった。この期間に月末に行くアットジャムのチケットを発券したが整理番号は300番台でどうなんだろうって感じだ。あと、初めてアイドルフェスに行くもんでそれもやや不安要素というか勝手が分からないので想像がつかない。入れ替えがあるとか最前管理がどうのこうのとかよく分からん。調べてみたけど検索して出てくるようなもんではないらしい。まぁどうなろうと楽しむ気持ちだけ持っていれば大丈夫だ。アンジュとつばき武道館は目を引ん剝くレベルのハズレ席だった。ただシステム上どっかで採算が取れるというか、平均値に収束するんだろうからあんま気にせず行こう。そういや宝くじは買えば買うほど30%の利益に近づくんだとか。どんだけ買っても30%は戻ってくると考えるか、なんでそんなに30%に近づくシステムなんだろう?ってことは宝くじに夢なんてない……と考えるかは人それぞれ。まぁ私は買わない。

もう一か月になろうとしている筋トレ生活だが着実に成果が出ているのを実感している。それを実感できるのは間違いなく懸垂のおかげだ。周りの人にも筋肉ついたねと言われる。何より自分が一番それを感じている。筋トレをしていて良かったのは、私が元々出不精でその理由に色々やらない言い訳を考えることがあったのだが、筋トレによってとにかく行動するという習慣がついたので筋トレの習慣だけでなく出不精も改善した。よく筋トレが鬱に効くとか筋トレがすべてを解決してくれるといった文言を目にするが、その背景について、自身も筋トレしている千葉雅也氏のコラムを読んであぁなるほどなと理解できた。

www.asahi.com

僕は今の筋トレブームに対しては、すごくアイロニカル(皮肉的)で懐疑的な見方をとっています。グローバル資本主義が激化して、自己責任プレッシャーが強まっているネオリベ(国家による個人や市場への介入を縮小し、個人の自由や市場経済を重視する思想)的な世の中で、自分に自信を持つため、あるいは不安を否認して目をそらすための技法として筋トレやマインドフルネスといった、自己に集中するタイプの技術が人気になっているんだと思うんですね。

急に予測不可能にビットコインが下がるとか、変化が非常に流動的で明日どう変わるかわからない世界にいると、人は自分に近い場所で何か確実性を担保しておきたくなる。それを非常にプリミティブ(原始的、根源的)に実現してくれるのが、筋トレなのではないでしょうか。

自己啓発系の筋トレ本などで見かける「筋肉は奪われない」「筋肉は裏切らない」といった言葉は、そうした欲求を言語化して煽るものである、と。

千葉 そうそう。グローバル資本主義の厳しい自己責任的な世の中で、原始的に頼れるのが筋肉の成長可能性だから、「筋肉は裏切らない」なんですよね。ただそこでも残酷なことに、筋肥大には遺伝的な素質があるので、どこまでできるかは人によって違いがある。そこをちゃんとごまかさないトレーナーもいるけれど、「誰でも頑張ればすごい体になるんだ」と幻想を説く人もいる。それはまさに「みんなも頑張ればすごい金持ちになれるかもしれないぞ」という考えと、まったくイコールじゃないですか。本当はそんなことはなくて、その人が属している社会的なさまざまな条件や状況によって変わってくる。努力が確実に実を結ぶかどうかなんて、保証されていない。それは筋トレも同じで、努力してどこまでいけるかはわからない。

だから、「筋肉は裏切らない」というのは、今の社会状況を否認するための悲痛な叫びだと僕は思いますね。それでは結局、資本主義の巨大な動きに従属して踊らされている、被従属的な身体なんです。筋肉をつけて確固たる自分を確保しているように見えるかもしれないけど、実際は他律的に身体をつくっている。

 

自分自身が今筋トレをしている一番の理由は何だろうと考えるけど特に深い理由なんてなくて、多分自分が何となくできることだからやれてるんだろうし続けられてるんだろうなと感じる。誰かと競うわけでもなく徹底的に自己目的的かつ自己満足。だから、セット数だとか私はこうしているみたいな他人のやり方を見ると一気に続かなるだろうとも思う。例えば自分の中の師がいればそれを真似る、もしくは習うようにすればいいのだろうがそうでない人たちについて積極的に自分からアクセスする必要はない。先にも上げたように誰かと競うわけでもなく徹底的に自己目的的かつ自己満足。これはなんだかんだ自分が行うことのほとんどに通じるだろう。この精神を忘れないで行きたい。

 

この一週間のざっとした記録。

日 つばきのスカパー、配信を見る
月 ブックオフで諸々購入(考える方法、思想地図1,2、現代思想入門) L字懸垂逆手10×3 プランクトーク2回
火 古着を2万円分購入。ホワイトデニム、バンドT、ヲタT風なTシャツ、半袖シャツ等ほしかったものが買えて満足
水 夏月姫ちゃんオンラインお話し会 ドトールアイスMとソフトクリームバニラ インターバルランニング200m×5本 2セット目は4本 懸垂 順手8×3 ディップス8×3
木 ドクターストレンジを見る。スタバ アーモンドミルクラテショート ミシェル・フーコーを一時間ほど
金 L字懸垂 逆手10×3と5×3 ディップス10×3 壁倒立40秒2セット チューブトレーニング 二頭筋 肩 それぞれ1分で2セット 体操選手を目指す まずは肩(三頭筋)が足りてないかな
土 L字懸垂 順手10 8 5 ディップス10×3 足上げ腹筋10×3 壁倒立1分2セット
 
月姫ちゃんとのオンラインお話し会はマジで楽しかった。心の底から笑顔になれたし幸せな気分になった。ヲタク、これからも頑張って生きていきます、って気持ちになれた。
では、日記を。この一週間は書いてない日もちょこちょこあった。
 
22/05/02
ちくまプリマー新書 考える方法
p60
「明確に証明できないのを理由にして、何もしない口実に使うことは、まさしくニセ科学ではないか。」
 
 
何が足りていないのか→まず最初の方から考えよう。向き合おう。適当にやっても適当な結果しか出ないぞ。自分がなぜ向き合っていないか、向き合えないかは既に出した。
 
書類は通るけど1次面接で落ちる→ES以上の自分を出し切れていない。ESはあくまで表面的なので、面接では始めから深いところを切り込む。どんな考え?感情?自分の中でゴール見えてないとできないよ。
 
意地を張らないこと。プライドを捨てること。
ドクターペッパー飲んでるやつはドクターペッパー飲んでる俺かっこいいと思ってるという偏見(意地)は偏見される側が変なものを飲むという意地を張ってるのか偏見する側が斜めから見るという意地を張ってるのか。
まず、ドクターペッパーは多くの人が好きではない味だという共通認識があり、そこから、それをわざわざ飲むような人は変わり者だという話に繋がってくる。ここまでは偏見には当たらないレベルだ。この変な飲み物という位置づけは、普通の飲み物(ここでいえばコカ・コーラ)があるからこそ生まれるものである。間違いなくマジョリティ側の方がマイノリティを揶揄することのほうが共感を得やすい。だからこういった揶揄するレベルの発言が生まれ、偏見となる。一方、偏見が十分広まった中でも飲み続けるマイノリティ(彼らはあくまで被害者)には何か意地のようなものがうかがえる。マイノリティかつ人々に斜めから見られる立場でなおかつ飲み続けるからだ。しかし、彼らが意地を張ってるように感じるのは、自分がマジョリティのそれも積極的に揶揄する立場にいるからではないか、ひいては、普通が正しいという安全圏にいるからではないかと感じる。ここにも普通と普通ではないことを二項対立的に見るという強烈な偏見があり、そこから離れることをしない意地が観測される。さて、ここでどちらが意地だと言えるだろうか。
 
理性とは環境のノリに合わせる思考
衝動に代表される無意識の行動(哲学的に言えば狂気?)とはその人の本性(仮固定による)
 
追い詰められたら逃げてもいいと言うが逃げる思考になってる時点でメタ的な視点を持つべき。〇〇やんなきゃの板挟みが同時多発的に発生し身動きが取れなくなる。そしてそれは言い換えれば意地とも言える。環境のノリとも同じ意味だ。つまり、そのばのノリに合わせるという意地を張ることが最終的に自分自身を追い詰めるのである。とにかく意地を張らないこと。こうしなきゃいけないという思考を取り払う。突発的な、自然的な現象を楽しむ。そういうメンタルで。
 
 
生きていく中であと何度その場でしか通用しない技術を学ばないといけないのだろうか。そして社会人はその連続かもしれない。プラスティックな技術ではなくもっと本質的な芯を持って、自分を持って納得させていくしかないのかもしれない。
 
22/05/03
適当に書いた(本心ではない)ESが通った→チョロいな。こんなんで本当に俺のことが分かるのか?こんなんで俺のことを評価されたくない。もっと本当の俺を正当に評価してほしい→それを面接で出せばいいだけの話では?それが面接の意義というかプレイヤー側のアピールチャンスなんじゃん。もっとプレイヤーとしての立場を考えよう。ES以上の自分を出すとはそういうことか。
 
自分を初心者だと位置づける癖がある。そしてその癖が自分の成長を阻害してる。初心者だと位置づけることは失敗の言い訳になるし、成功に対する評価も上がる。まさに自分を守る術だった。自分を初心者だと位置づけないためには、初心者から達人までの道のりと考えないこと。意外と自分の能力はその道のりとは関係なく持っているときもある。下手に初心者から染まるとうまくいかなくなるときもある。まずその道の究極を目指す。達人のメニューを見る。そこと自分の現状との対比からどうやって差を縮めていくか、もしくは妥協するかを考える。
こうすればこうなるといったハウツー的な考え方ではなく、まずゴールから。
誰だって人生の初心者なんだから→人生には初心者も達人もいない→
 
22/05/04
達人の域→いやいやこんなんできねぇよ→初心者用のメニューをやる→長続きしない
達人メニューで全然良いのかもしれない。あと、三日坊主にならない、もしくはなってもいいように記録を付けることは大事。
今やってみたいこと
・筋トレ(目的としては心肺機能と筋力、つまり体力の維持もしくは強化)目標レベルとしてはサッカー選手、アダマ・トラオレのような肉体
そのためには……公園筋トレをもっと増やす(懸垂以外)、インターバルランニングの目標設定(タイムなのか本数なのか)
・勉強(研究活動に限らず)プロと呼ばれる人はどれくらいの質と量の勉強をしているのか。こうすればこうなるという参考の仕方はだめ。自分が集中できる場所、カフェや図書館で勉強する習慣を。
・読書とブログ(インプットとアウトプット)読書による作者もしくは作品との対話を意識したい(暇と退屈の倫理学より)、ブログに関してはライティング技術の本なども読んでみたい
・就活(というか人生設計)自分と向き合うには何が好きで何がしたいのか、つまり自分の仮固定を理解する必要がある(勉強の哲学より)きがする。そのうえで就活の最低限の、いや、全ての流れを抑え、考えていきたい。
 
これらは全て同時並行して行うことが可能である。自分に義務付けるのではなく自分がやりたいからやる。そこには他者性など必要ない。そして、自分を初心者と位置づけないこと。安易に初心者として甘んじることはしない。
インプットとアウトプットにはそれぞれそれを行う場所(というかスタイル)があり、そこを理解する必要がある。ダルくてもとにかく行動するしかない。どんなことだろうとアクションを起さなければ何も始まらない。
 
22/05/05
志望動機
企業のコアビジネスはなにか?
btob, btocかを履き違えない。
自己PRで伝えたいのは結局何なのか。蛇足的な要素はいらない。読みたい本、読んでて面白い本ってどんなのだろうか。自慢ばっかじゃ自己啓発本と同じになる。
 
マルチバースパラレルワールド)だろうと個人には個人の運命のような呪いのような結末を迎える行動を取ってしまう。これはその人の本質、つまり「仮固定」と捉えられる。マルチバースを行き来することと他者に触れることで自分の思考を俯瞰することができ、結果的に呪いを解くことができた。これは脱構築と捉えられる。アベンジャーズのヒーローだった人が一気に偽善者になるというある種衝撃的な映画だった分モヤモヤも残る人がいるかもしれない。自分には自分の見えている世界しか分からないというのがよく表れている映画でなおかつそれは最後までそうだったかもしれない。nwhのようなマルチバースでの共闘もなかったし。
 
自分の現在は偶然が連続的に重なっていくことで生まれたものに過ぎない。歴史も同じように偶然性の産物の集積に他ならず、そこにストーリーを見出すのは人間のエゴのようなもの。自分は歴史の1ページなのではなく、ただ、今この瞬間を生きているだけであり、歴史のストーリーとは違う時間軸で、歴史の中の差異として生きていくことの必要性。ストーリーとして捉える際に生まれがちな、ポジティブなものの背後にあるネガティブな要素と、それこそが重要なのだと決めつける傾向を放棄することで、今この瞬間をポジティブなものとして受け入れられる。
 
 
自分が今運動をするモチベは何か?今は懸垂から入ったこともあり、器械体操のように自分の体を自分の思い通りに動かすことが最終的なゴールかなと思ってる。これこそが教育における体育の本質だしな。運動の哲学にも触れてみたい。まぁストーリー性は必要ない。なぜなら偶然の積み重なりでしかないのだから。今はとにかく体操選手のように懸垂と器械運動、マット運動の(ための)トレーニングをやっていきたい。
 
22/05/07
自分は現在なんとなくできることの積み重ねで生きている。フーコーの考古学的な視点で自分史を考えたとき。
なんとなくできるようになったのは偶然の重なりであり、現在のわたしからしてみればなんとなくできることでしかない。そして、できないことはおそらくできない。0%が10%になるくらいは出来てもその先に行く力は多分持ち合わせてない。あくまでポジティブな視点でね。
なんとなくできることは自分の能力だし、そこを伸ばすというのは良い策だと思う。
〇〇やんなきゃみたいな思考で生きてるうちは一生この社会構造の中で転がされてるだけだし、そこでうまくやってける自身はない。その生きづらさから脱していくには俯瞰でみることと勉強することが必要。
今の自分にとってより良くいきるためにどうすべきかはやはり真剣に向き合っていかなければならないことで、そこは世の中にはどういう職業があるのかを知るところから始めるくらい初歩のレベルだと感じる。自分としては、職人的な専門的な仕事をしてみたいと思ってる。最終的には自分で店を持って自分の好きな音楽をかけて自分の能力が他人に評価されるような環境。そう考えたのは2年か3年のときだったと思う。やはり4年に近づくにつれ、環境のノリに合わせなければと思うようになり、自分がしたいとも思ってないことをやるようになっていた。しかし、このモヤモヤを通して、自分がなぜこういう場面で上手く行ったのかってのをなんとなくながら分析できたのは良かったかなと思う。
環境のノリに合わせなければと思うことで社会に生きづらさを感じる。その生きづらさを自己実現に昇華できれば、いや、できそうかもしれない。今はそこを探るようにしよう。自分を初心者と安易に位置づけないこと。そして、環境のノリに合わせていないかを逐一確認すること。そうやって考えていくことで自分が分かるかもしれない。とにかくやってみよう。アクションを起こそう。
 
 
オマケ
中山夏月姫ちゃんオンラインお話会レポ
自分「おー!夏月姫ちゃん!メジャーデビューおめでとう!!」
月姫ちゃん「いやー本当にありがとう。」
自分「夏月姫ちゃんプロレス好きということで、自分も元レスラーです。(学生時代のレスリングのユニフォームを見せる。)」
月姫ちゃん「えー!テンション上がった。」
自分「あ、アットジャムとオチャノーマの間行きます!」
月姫ちゃん「んじゃそれ着てきて笑」
自分「(笑いながら)いやー……あはは(なんちゅう無茶振り)」って言ってる途中で終了。
 
 

22/04/24(日)~30(土)

4月20日から現在進行形で筋トレというか運動をやっている。ここ最近肉離れを起こしたが、それまでは肺活量と心肺機能の強化を目的にインターバルランニング、全身運動として懸垂という2種目を主にやっていて、今は懸垂をメインに鉄棒で上半身の運動を行っている。私の目標はビルダーのようなボディーではなく、体操選手のようなボディーだ。自分の体を自分で支える。これは思ってる何倍も難しい。格闘技経験のある私でも体操選手のやってることはかなりすごいと感じる。もちろん種目ごとの特性の違いがあるがトレーニングの動画などを見ているととても憧れる。しかし、残念なことに世の中には吊り輪やマットが敷かれた広い空間、あん馬はまぁ置いてないわけで。最低限それに近いもので、一応高校のとき得意だった懸垂を公園の鉄棒(それも子供用でかなり低い)でやっている。低いことにもメリットがあり、それは自然と足を前に出さざるを得なくなり、いわゆるL字懸垂という体幹や腹筋も同時に鍛えられる種目をできるようになる。多分みんながよく想像する腹筋運動の何倍も効く。と、そんな具合で筋トレというか懸垂をやっているのだが、これにはもう一つ理由があり、それはメニューを考えるのがめんどくさい、というかもっと広く言えば、なんとなくこうなりたいってのはあるけどその過程を考えるのがめんどくさくなっちゃうという理由だ。例えば私はお金持ちになりたいと考えているが、そのためにはどうするかという具体策を考えるようなことはせず、結局働くことでお金を得るという結論を出す。実際は安易な発想だが株であったりいろいろな方法がある。しかし、結局やらない。他にも、携帯電話を機種変更しようと思った際、大手キャリアで契約するよりも格安シムであったりを契約したほうが得だってのはなんとなくわかる。でも、めんどくさいから結局モヤモヤした気持ちを残しつつ大手キャリアで機種変更を行う。なぜなのか。ここには、めんどくささについてフォーカスすべきではないかと感じる。

ここ最近(このテーマの期間とは異なる)自分について考えるが、自分は、現在なんとなくできることの積み重ねで生きているんだなと感じる。フーコーの考古学的な視点で自分史を考えたときだ。なんとなくできるようになったのは偶然の重なりであり、現在のわたしからしてみればなんとなくできることでしかない。成功に固執せず、今の自分にできることを起点として日々を送っていく。そして、私のような人間が何かしらの結果を出すには習慣化しかないと思う。フィリップ・トルシエ監督が言うようなオートメーションを生活に導入する。とりあえずやってみる。

 

そんな感じで今考えていることの軌跡を示しつつ4/24(日)~30(土)の日記をコピペしていく。ここに出てくるのはほとんどが千葉雅也氏の現代思想入門をよんで考えたことであるので説明が抜けている部分はだいたいその本のことだと思って読んでいただきたい。

 

22/04/24

寝れたかどうかに限らず自分が満足だった1日を送れたかどうかが次の日のコンディションに関わっている気がする。
エリック・ホッファー『波止場日記』
p55 l10 『まだ疲れている。そして、疲労は休息では消えないことに気づく。』
 
昨日カフェに行こうとした際に「カフェに長時間居座るのは店員からしたら迷惑なんじゃないか」ということが一瞬よぎり、カフェに行くのを躊躇しかけた。だが、そこで、自分の行動に他者性が帯びていることに気づき、「誰のためじゃない 自分のためだろう」というモーニング娘。'21の歌詞を思い出したことでカフェに行くことができ、結果的に一時間ほど滞在し読書をしたりすることで満足した日が送れた。
この出来事はしばらく忘れないようにしたい。
 
先週はこれまでにないほど活動的な日々を送れていたと感じる。ただ、何かに追われている(と感じている)状況下ではやはりそれに耐えうることができずにいる。他人のために、もしくは環境のノリに合わせるための行動はやる気もでないし終わりがないようにも感じる。そこから得られる満足なんてあるのか。結局、満ち足りる感覚は自分自身にしか分からず、そういった意味で自分が満足するために、自己目的的に生きることの重要性を感じる。
 
自分のために生きることを追求するのは他人のことを考えない迷惑なやつになることでもあるかと考えた。しかし、そういう考えをしてしまう時点で規律だとか社会というものに毒されているなと感じた。自分のために生きるというのは自分の信念のもと生きるわけで、何が良い悪いってのも自分で決めりゃいいだけ。千葉雅也氏が言うような世俗的な自由を追い求めていきたいと感じた。
 
フーコーの本も読んでみたい。
 
四章
・近代≒資本主義において、仕事のために自己啓発本を読んだり勉強する、いわゆる意識高い系の行動は、搾取されていても快適であるために、みずから進んで工夫をしているのではないか
下部構造の問題から目を背けている。資本主義の罠
 
・「本当に意識を高く持つというのは、搾取されている自分自身の力をより自律的に用いることができないかを考える
 
・無意識的に形成された自分本来の力、上部構造や社会性、世間体、意識高い系における『意識』などの抑圧や先入観がないなかでの自分本来の力を以下に取り戻すか。そしてその力によってどうやって搾取構造ては異なる独自の秩序を与えるか。
自己への秩序付け=「自己への配慮」
 
・偶然性に目を向ける。今の自分の必然性を疑う。→成功には偶然がありうるが失敗には偶然はない!!
自分自身へと帰る。そこから自分には何ができるのかを考える。
「努力は決して平等な競争ではなく、努力次第であらゆる初期条件をリセットできるわけではない」
ネガティブ(=社会的な良さとの対比としての)な特徴による表現
そのためには、自分が今なぜこのような人間かを精神分析的(幼少期の親との関係から考えるのではなく、自己を形作った偶然的な出来事たちを包括的に考える)に追求し、偶然の出会いへと遡る。
 
・「同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見する

 

22/04/25

気まぐれでドライブ・マイ・カー鑑賞
先がどうなるか分からなくとも前向きに生きていくことが生きとし生けるものの使命。ここらへんはネガティブケイパビリティがすぐ浮かんだ。
物語の繋がり方がスムーズで素晴らしい。
 
ミシェル・フーコーの入門書購入。明日読む。
 
フードコートにて岸本ゆめのちゃんが飲んでたマックフィズを飲みながらmid90's鑑賞。めちゃくちゃサイコーな映画。スケーターファッションとadidasのスーパースターカッコいい。何かに憧れて傾倒すること、何より自分のために生きることについて考えた。あと先のこと見据えて生きている人とそうでない人の対比が見られた。映像を撮ることというか作品を作る(出す)こともやってみたい。
イオンのフードコートわりと居心地がいい。今後もやっていきたい。
 
22/04/26
べんしょうほう
弁証法
 
物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。図式的に表せば、定立(「正」「自」とも言う)Aに対しその(自己)否定たる反立(「反」「アンチテーゼ」とも言う)非Aが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合(「合」「ジンテーゼ」とも言う)に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」(「止揚」「揚棄」と訳す)と言う。
(Wikipediaより)
 
「正」
・病とは身体の表層で観測される症状の集合。だから医学の任務は表層に起こる現象を観察すること。
・当時の死の概念は、生と病に絶対的な終わりをもたらし、病と同じ現象で身体を破壊するものとみなされていた。
 
「反」
・身体の表層で観察されるのは病ではなく、身体の深みにおいて起こった出来事に起因する現象
 
 
 
・ネガティブなもの(死)とポジティブなもの(病)の関係性、深層(ネガティブ)なものは表層(ポジティブ)にあるものの真理だという垂直的な関連性の思考について疑いを付し、そこからスタートする
 
 
 
結局何かあればそわそわしちゃうというか自分のために行動することができてない
というか他者、環境がなければそもそも行動しない?
とにかく気分はあまり良くない
 
↑解決
やはり自分の機嫌は自分で取らなければいけない
↑のように思ったのはまぎれもなく行動が誰かのためになっていたからだ。
時間をつぶすという行為は自分のための行動ではない。自分がしたいから出かけて本を読んでたのに後のことに気を取られ自分のための行動でなくなってしまった。このときになにかから逃れるためにする行動は須らく自分を満足させるものでない(暇と退屈の倫理学における「消費」)。
早い段階で自分を諌めなければならなかった
以前あげた自分が負のサイクルに入らないための思考図を意識する必要がある。
特に学校、バイトがある日は絶対
 
イヤホンでノイキャンにするだけで簡単に自分の世界に入れる。視界を遮るのもいいがそうするより目の前のことに集中するほうがいいかも。
 
暇と退屈の倫理学もっかい読みたい
 
22/04/27
二項対立的に考えないためには弁証法のアプローチは結構使えると思った。
 
現代思想入門第五章 ラカン
・「精神分析の言うことをすべて真に受ける必要があるとは思いません。」
 
・「一九世紀において、表面の秩序の下に隠されている力の次元が発見され、 二〇世紀になってそういう脱秩序的なもののクリエイティビティが言われるようになった。表面の秩序というのは二項対立的な組み立てです。」
・『人間は過剰な動物だ』、「人間はエネルギー(認知エネルギー)を余している」
 
・「本能とは『第一の自然』であり、動物においてそれはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを『第二の自然』であるところの制度によって変形する」
例)本能的な栄養摂取である食事(第一の自然)に対しての料理という「制度」(第二の自然)
他にも自分が名前で呼ばれること、周りの物の名前を教えられることも制度
 
・「そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程なのです。」
 
・自由に流動する認知エネルギーのことを欲動とする。人間は哺乳類としての本能的次元を欲動という流動的なかたちに変換し、発動している
例)本能的に同性愛があったとしても、欲動によって発現する人としない人がいる
 
・人間がやっていることは本能的ではなく欲動の可塑性を持っている。我々が正常と思っているものも欲動の可塑性から正常という逸脱であり、その点で、正常と異常という二項対立の構造が破壊される。→弁証法のアプローチ
 
ラカンの発達論……人間がいかに限定され、つまり、「有限化」されるか
 
・幼少期、安心安全な母子一体から母が一時的に離れるとき、理想的な状態から弾き出される(疎外)
そこから母が戻ってくることは、安心と、戻ってこないかもしれないというスリルによる2つの快を得る。前者は『快楽』、後者は『享楽』
 
・「成長してからの欲望には、かつて母との関係において安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽)を味わったことの残響がある」
 
・自分以外の誰か=第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という「感じ」が成立
こうした第三者の介入を『去勢』と呼ぶ。
「客観世界は思い通りにはならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢
 
・これを手に入れなければと思うような特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象a」という。人はそれを求め続ける。そして、それに憧れては裏切られることを繰り返すことで人生は動いていく。→これをメタ的にとらえ、欲望を滅却するのが仏教的な悟り
 
・原初の享楽には到達出来ない。対象aを転々としつつ、到達できない「本当のもの」=X(到達できない現実世界、つまり享楽)の周りを巡っている。
 
・人間は自分自身の全体像を見ることができない。鏡によって間接的にしか見れない。客観や他者によって自己イメージを作成するわけで、自己イメージとは他者である
 
・混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。
そうすると原初の幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽は禁じられる。言語習得はある意味世界を貧しくするが、想像力は無くならない。リゾーム的展開と言語的分節性は並立してる。
芸術で言えば「これはコップだから」とかで切り離さないで、様々なものをリゾーム的に近づけて化学反応させるような思考が重要
 
アイロニー的に考えても時間に限りがあるからどこかで「こうだからこうだ」としか言いようがない命題(行き止まり)に突き当たる
→成長する過程での去勢
 
・「人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいか分からない状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。」
 
・「儀礼とは去勢の反復」儀礼=ルーティンでドグマ(独断)的でしかない人間の行為や言葉のセットのこと
 
否定神学……「神は何々でないし………」といったように決して捉えられないような絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学
 
以前は人間は神には及ばない有限なものとしての有限性であったが、人間自身に限界があるとしての(死の概念)有限性=自己分析的な思考。
人間に分かっていることの背後には何か見えないものがあって、そこに向かって突き進んでいくというような人間像
 
ドゥルーズ+ガタリは具体的にアクションをしてみなさいと励ます思想。その活動ひとつひとつがそれぞれに有限に、それなりの満足を与えてくれる。さまざまな事柄を「それはそれ」として切断し、それなりにタスクを完了させていく。そういう気楽な人生を推奨している。
 
絶対的なひとつのXをめぐる人生ではなく、「人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めよう」、「無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性」
 
・「見せかけである対象aを求めては幻滅するのを繰り返しているのを自覚するだけでなくらその自覚によっても結局消えることがない根本的な享楽を見つけ、享楽的なものとしての、そこに自分の存在がかかっているような『症状』を社会生活と両立させてうまくやりくりできるようにする、という精神分析
 
・「その人の特異性―『存在の偏り』―であるような症状を、ラカンは『サントーム』と呼びます」
松本卓也「人はみな妄想する」を参照
 
22/04/28
文章の読み方において原文(西洋文法)の想像力があると読み込みやすい。
固有名詞やカマシのレトリック、表現はあくまで豆知識やお飾りにすぎない。読む上では「必要な情報だけを『科学的』に取り出してしまう」読み方がいい。それをするに当たりまず、文章を読む際にツッコまない。まずは「単にデータをまるごとダウンロードするような意識で読んで」、自分の頭で整理する(脱構築化)のはそのあと段階。
書くうえではその逆を意識すると格式高い文になるのか。
「表現の豊かさの問題として、繰り返しを避けたい、というのがある」
「お飾りを切り詰めて骨組みだけを取り出してシンプルに理解」
 
「本書は、『こうでなけらばならない』という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。」
 
22/04/29
バイトでミス
ミスをしても次気を付ければいいと思えるようになったからかほぼノーダメ
ミスをしてもそれで終わりじゃないし、終わりにさせないようにするのが個人と組織の役割なのだろうと思った。こんなとこでへこたれてちゃいけない。というのを考えたし学んだ。あと、〇〇しちゃ悪いとかカッコ悪いみたいな概念も少しずつ取り払えるようになってる気がする。そこを無くしていけば人間的にもう少し成長できるような。
人に何も言われないのが良いのではなく何か言われることを楽しむ。人にイジられるのが嫌ってのは根底にそこがあるのかも。自分の可能性を広げるためにもチャレンジ。
 
成功には偶然があるが失敗は必然。
確立された理論は再現性がある。その一部を掻い摘んだものが小手先だけの技術であり、再現性が高いとはいえない?やれることは再現性をあげること。ペップの戦術はピッチに立つプレイヤーをファイナルサードに導くこと。それ以降は選手の閃きにかける(つまり偶然性に賭ける)。夕空のクライフイズム風に言えば戦術「カオスをうみだせ」。
成功に固執すると……スタメンを固定し続けた風間グランパスの失速と崩壊。再現性のあるメソッドがあっても偶然性の高い成功に固執するとこうなる。固執することは哲学でいう「内在」的になる。
15-16のレスターはスタメンを固定したがたまたま誰も怪我をせず、たまたまビッグ6(毎シーズン優勝争いをする6つの強豪クラブ)が世代交代などの転換期で失速し、たまたまそのシーズン無風だったアザールがレスターの優勝を後押しするゴールをあげたりと、たまたまが積み重なり成功した。だから「ミラクル」レスターなのだと思う。
そう考えると再現性の高い確立された理論をもとに、最後の30%くらいの部分は偶然に任せるくらいが丁度いいのかもしれない。小手先だけの技術にはその70%を満たすほどの信頼性があるかといわれればNOだ。
 
自分の中の戦術はアップデートしていかなければならない。
 
22/04/30
企業研究に前向きでなかったのも就活のためとか〇〇やんなきゃと同じ考え方だったからだろうな。そこを自分のためにいかに変えていくか、持っていくか。結局他者の中でしか生きれないし、突き詰めれば誰かのための行動なのかもしんないけど、そこをどうやって思考を変えられるかがカギになってくるな。
メンタルタフネス
知性は死なない
暇と退屈の倫理学
勉強の哲学
の5冊がとりあえずコアになってる。それに加えてフーコーだとかももっと読んでいきたいし。
まぁ上の5冊は定期的に読んでいきたいな。
メンタルタフネスは筋トレとストレスへの向き合い方に。知性は死なないは自分の思想とか、社会に対する考え方のために。暇と退屈の倫理学は人生を退屈なものにさせないために。勉強の哲学は自分の行動指針を見つめ直させてくれるために。現代思想入門は勉強の哲学の補完と知性を広げるために。どれも重要。とりあえず筋トレも続いてる。頑張ってこ。人生を楽しいものにできるかは全部自分次第。自分の機嫌は自分で取るしかない。
 
 

22/4/17(日)~23(土)

新学期が始まったのはいいものの、履修の仕方で勘違いしている箇所があることに気づき大学四年生にして新入生が受ける用の講義を一科目受ける羽目になった。しかも対面でだ。授業における対面か、オンラインかという区別はそれまでは存在しなかった。だから、2020年から始まったこのクソみたいな期間に大学に在籍していなかった人々からすればどっちがどう違うのかということについては想像しがたいと思う。結論から言えば、学生にとって(おそらく教授や大学関係者にとっても)オンライン授業の方が圧倒的に”楽”だ。オンライン授業も大きく分けて二種類に分けられ、授業資料のみを配布して小課題やレポートの提出によって評価を決めるオンデマンド型と、ZOOMなどを用いて授業を行うリアルタイム型がある。これに関しては、拘束時間が短く、自分がやりたいときに授業を受けることができるオンデマンド型の方が圧倒的に”楽”である。また、リアルタイム型にしても学生側がカメラをオンにすることを義務付けられているか、時折学生側に何か質問されることがあるかなどで”楽”かどうか決まってくる。そのどちらもないような、つまりカメラオフかつミュート状態の場合はPCで授業ページに飛べばいいだけで、その間は何をしてても自由なので”楽”になる。総括するとオンライン授業は”楽”なのである。これを知っていれば通信制の大学に行っていたな、と思うくらいには”楽”だった。そして、二年の月日を経てそんな確変タイムは終了し、対面授業という名のごく普通の授業形態に戻ってきている。まぁこれまでが異常だっただけだ。
学校に行かなければいけないということでバイトと家の往復しかしてこなかったくらいに出不精だった私はこれを機に解消しようと考えた。手始めに学校近くのブックオフに寄ったところ、千葉雅也さんの「勉強の哲学」という本を発見し購入した。面白くて三日ほどで読み切ってしまった。
その本の主旨としては、人間というのは所属する「環境」に沿った行動をとってしまう生き物で、勉強をすることでメタな視点を持ち、環境に沿った行動から脱しようとする、しかし、勉強をすることで全く別の人間になるわけではなく、結局同じ視点のままかもしれない、ただ、それまでと全く同じではなくメタな視点を持った同じ視点になるよという話だった。自分自身の現在置かれている状況をメタに分析することができたし、いろいろ考え、実行するきっかけとなる本だった。
まず、自分について考えたこととしては、自分は他人に「何も言われない」ためになにかをやっているんじゃないか?ということだ。
他人に何も言われないように事を運ぶというのは非常に日本人的だと感じる。努力を隠し、結果で示す。何か文句を言われないようにすることが行動の動機である。しかし、そんな自分でも、褒められたい、認めてもらいたいという承認欲求があることは確かだ。何も言われないことは自分を満たすものではないだろうと思う。そして、ここでなぜオンライン授業が”楽”だったかが自分の中で合点がいった。このクソみたいなシステムは極端なまでに直接的な交流が減ったことで、課題を一方的に出され、それを一方的に提出するような「何も言われない」ことを動機としている人間にとっては、非常にいいシステムだったんじゃないかと思う。実際それで上手くいった。だが、現状うまくいっていない部分があり、それは研究活動である。研究活動とは、何か言われることで新たなアイデアや考えが浮かんだりフィードバックすることを積み重ねる地道な活動であり、「何も言われない」状態にするのはよろしくない。むしろ積極的に何かを言われようとするべきなのである。これに関しては、日本の教育体制にも問題があると思う。国語の試験は「感想を書け」という問題にすら正解不正解が存在するのは何故か。日本は察する文化だからだ。創造性よりも暗記的な学力が求められるセンター試験がたびたび批判される背景にもこのような問題が関わっているだろう(ただ、2022年度の化学の問題が高校の教科書知識ではないって話から共通一次試験というものについてはいろいろな議論がなされており、一概にどうこう言えるものでもないなと感じた)。そういった教育のもとで育った我々が私が今ぶつかっているような壁に直面するのは至極当たり前なのかもしれない。大学に入ってから、今日の授業に対して何か質問をしなさいという課題が出たとき、私はどうすれば良いのかわからなかった。質問をするという発想がないからである。文章を批判的に読むとかそういった体験はそれまでほとんどなく、どんな文章も教科書のように読んでいた。こういうのはもはや染み付いてしまっている。無意識のうちはついついやってしまっている。
他人にとやかく言われることは嫌だ。そう感じるようになったのはいつからだろうと考える。単純に怒られるのが嫌で優等生でいるためにそうしてるのかって言われるとちょっと違うんだよな。そうなると、思春期の自分の中の秘密の世界に介入されたくないって思いがそうさせてるんじゃないかと思う。本当の自分なんて他人には分からない、理解されたくもない、そんな思春期特有のものがあって、どの程度だろうと須らく他人の介入を避けるために、何も言われないための行動=その環境におけるこれはこうするもんだといった「ノリ」に合わせた行動をとるようになる。合点がいくのはこっちの方かな。つってももう思春期ではない。まぁ思春期特有のそれは今も尾を引いてるし、そこの殻を破れてはいない。だからこそ、自分の承認欲求だったり、本当は理解されたい、他人とかかわりたいといった自己実現を達成できず、それによるストレスやモヤモヤが生まれるが、そうなる度に思春期特有の思考が発動し、自分を正当化することで、自分の世界に閉じこもることで現実から目を背ける。それが自分にとっての防御策であり、どんどんこじれて抜け出せない負のループの一要素でもある。そして、今はそういう自分を俯瞰できているフェーズ。
そして、その環境の「ノリ」に合わせることを行動の動機とするクセは、私にとってもう一つ重大な問題をもたらしている。それは、〇〇やんなきゃ→でも、〇〇があるからなぁ→んで結局やらない、という環境のノリに合わせた板挟みが引き起こす負の連鎖だ。例えば私は今早朝と夜にある2つのバイトと学業、そして趣味等を並行的にやって生きているわけだが(いやいやみんなそうして生きているだろって話は置いといてね)、まず、早朝のバイトの「ために」早く寝なきゃいけない、でも学業でも何か言われない「ために」おわさないといけない課題がある、でも夜には別のバイトがあってそこに支障をきたさない「ために」早く準備をしなきゃいけない……と、負の連鎖が続き、結局何もやりたくなくなる。最後の何もやらなくなるという結末については、これらのやらなきゃ→でもあれもやらなきゃという苦しみが認知資源を消費した結果であると考えられる。しかし、問題の根本にあるのは環境の「ノリ」に合わせることを行動の動機とするクセであり、そこから逃れるためには、
①「でも」を断ち切る、即ち環境のノリに合わせてないかを俯瞰して考える。
②そもそもの〇〇やんなきゃという考えは何から発しているのかを考える。つまり、それが環境のノリに合わせるために発せられてるならそれ自体が負の連鎖を生み出している。
ということを理解する必用があるのではと感じる。哲学的に、アイロニー的に原因を突き詰めていくことでここから脱せられるのではないかと。私はここ最近(というかもっと長い期間かもしれないが)自分のために生きていることを忘れていたように感じる。もっとも趣味だったり自分の心から好きなことに関しては心の底から楽しめていたので、やはり自分のために生きることの重要性を感じた。あとこれに関しては、千葉雅也さんの現代思想入門という本にヒントとなりうる記述があった。
p67~
ドゥルーズいわく、世界は時間的であり、全ては運動のただ中にある。全ては「出来事」→本当の始まりや終わりはない。
筆者の噛み砕いた表現でいうと「全ては生成変化の途中であると考えたとき、すべてを「ついで」でこなしていくというライフハックになる。」
マルチタスク思考というか、他人のために生きることで自分が損をしてしまうというのは生きていく中で何度か見てきた。こういう言葉をみるだけでだいぶ生きるのが楽になる。
 
ここまでざっくり書いたが、ここからさらにざっくりと殴り書きしていた自分の日記というか読書などを通して考えたことをコピペしていく。
 
22/04/22
何かをする動機が他者から自己へと移るとやる気もでるし結果もでる?
自己目的的に行動する
モーニング娘。'21「信じるしか!」
誰のためじゃない 自分のためだろ
 
↑朝起きたらこのフレーズを思い浮かべる。しばらくのスローガン
 
誰かのためにやったことは身にならない
→レジュメを作るために読んだ本から得た知識はあるのか
誰かのためにが積み重なれば誰かのための時間、誰かのための日、そしてしまいには誰かのための人生になってしまう。
自分の時間を大切にしろというのはそういうこと
とにかくルーティンをこわす。今であれば生活拠点、それも負のサイクルの源泉となっている家で過ごす時間を減らす。すると家で過ごすことに対する考え方も変わっていき負のサイクルを破壊するきっかけになるのではないか。
 
22/04/23
自分はなぜ集団が苦手か
自分が他人と対比される(自分が低い立場に立つときに限る)ことが苦手なのでは?
→劣等感、ジェラシー
 
社会心理学講義 ──<閉ざされた社会>と<開かれた社会>」 (筑摩選書) 小坂井敏晶
第8講 自由と支配
 
・支配関係の消失は原理的にありえなく、社会には必ずヒエラルキーが存在。そのヒエラルキーの違いは何らかの方法で正当化。(深層的な支配の合意の源泉としてのヒエラルキー
 
・「人間は常に他者と自分を比較しながら生きている。そして比較は必然的に優劣をつける。」
 
・近しい比較対象との差こそが問題を孕む――アリストテレス 『弁論術』「羨望」第2巻十章による指摘
「妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者に対してだ。それは家系・血縁関係・年齢・人柄・世評・財産などにおいて似通った人のことだ。[……]時・場所・年齢、世の評判などで人は自分に近い者を妬む。[……]競争相手や恋敵、一般に同じものを欲しがる者と人々は競う。そのため彼らに対し必ず嫉妬心を覚える。」
 
・「平等な社会が人間を幸福にするとは限りません。比較の対象にならないほど他者と自分の能力が異なれば、羨望は起きない。生まれるのは尊敬の念です。バスケットボールのマイケル・ジョーダンや野球のイチローのような非凡なスポーツマン、あるいはアインシュタインのような天才科学者を想像すれば、それは明らかです。しかし能力が拮抗する者を前にして自らの劣等性を受け容れるのは辛い。」
 
・「異質性よりも同質性の方が差別の原因になりやすい傾向」
 
・「境界が曖昧になればなるほど、境界を保つために差異化のベクトルが、より強く作用」
 
・「明白な差は誰にも納得できる。しかしほんの小さな違いしかなければ、自らの劣等性を受け容れ難いし、優越者もわずかな優位を守るために多大のエネルギーを費やさねばならない。」
 
・「同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり、給料が少なかったりしても、それが意地悪な上司の不当な査定のせいならば、自尊心は保たれる。格差の基準が正当ではないと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないですむ。」
 
→自分はやる気がないから、始めた時期が違うから等々の言い訳で自尊心を保っている
 
・Ellemers et al., 1988 ; 1990 ; 1993)による指摘
「下位集団のメンバーが肯定的アイデンティティを持てるかどうかは、上位集団と下位集団を隔てる境界の浸透性に左右される。下位集団から上位集団への通過が可能な場合、それが不可能な場合に比較して、自らの属する集団を放棄して上位集団に自己同一化する動きがより顕著です。また同時に下位集団の成員はより強い不満を感じます。社会上昇が不可能ならば諦めもつくが、上位集団に入れる可能性が高まるにつれて期待が増大するからです。」
 
 
 
他人、それも同質的な他人との差異を受け入れるには
→そもそも比べていること、自分が優位に立ちたいと思っていることが大きいのではないか?
 
自分の有能さを他人と比べることで得ようとしている。自分の能力で集団におけるアイデンティティを位置づけようとするクセ
→そこから脱するためには
「自己肯定感」
他でもない自分自身を受け入れ、そこからスタートする
やる気が出ないのも自分、物事にとりかかるのが遅いのも自分、でもそんな自分を受け入れ、開き直るのではなく、そこからスタートする。人の良いところに目を向け、(自己否定から始まるのではなく)自分をより良くしていこうとする。
ただし、成功には偶然があるが、失敗には必ず原因がある。だから成功から学ぼうというアプローチはすべきではない。
そして、小手先の技術ではなく、自分の心を揺さぶるような本質的な考えに触れる。
自分を肯定するには、自分とはなにかを考えるうえでは
→色々なものに触れ、自分の「好き」と「何がしたいのか」を作っていく
そこに他者性はいらない。
モーニング娘。'21「信じるしか!」より
「誰のためじゃない 自分のためだろう」
 
 
 
人間は根本的に「飽きやすい」
三日坊主でもいいから記録しておくこと
p98以降
・『生政治』……人々を集団、人口として扱うような統治。内面に働きかけるような規律訓練ではなく、即物的なレベルで機能。例)移動の自粛は規律訓練でワクチン接種は生政治
 
・ワクチン反対派の心理……ワクチン政策は『生政治』であり、人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物としてあつかって、死なないようにするという権力行使。
ここで言う「死なないように」は、働いて税金を納めて国家の歯車にするという意味。そういう統治に巻き込まれたくない=自由でいたいという抵抗の気持ちが無意識にある。
規律訓練への抵抗は自粛を破ること
 
・「現代社会は規律訓練と生政治が両輪で動いている」それでいて生政治の部分によるコントロールが強まっている(喫煙所の撤去、ワクチン接種)
 
・「良かれ」と思ってやっている社会政策が、主流派の価値観を護持するための「長いものに巻かれろ」になっている
→人生の自由とは?
人間の自由を泳がせておく
 
・我々が思う個人は歴史の中で作られた個人。アイデンティティが成立したときに良いアイデンティティと悪いアイデンティティも成立してしまった
例)同性愛はあっても同性愛「者」は居なかった
LGBT支持の運動は悪い(とされている)アイデンティティを認めさせる運動。そもそも論としてどうなの?現代社会の個人のなかでのムーブメントでは、近代という構造をこじらせているだけ。
 
・古代の世界……「自己に対してその都度注意し、適宜自分の人生をコントロールしていく」=『自己への配慮』
自己本位での自己管理↔近代の人々を群れとして支配する生政治
→ここにヒントが
 
・現代と古代の違いは「やってはいけないこと」が何か。(近代の規律訓練の結果、やってはいけないことが大方決まってしまった)
 
・生政治と規律訓練の両輪の近代で「新たなる古代人」になるやり方として、「内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする」というやり方
つまり、「新たに世俗的に生きることで、日常生活のごく即物的な、しかし、過剰ではないような個人的秩序付けを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにはみ出してしまっても『それが人生なのだから』と構わずにいるような、そういう世俗的な自由
 
『二項対立的に考えない』
 
 
他人と比較してるのは「アイデンティティ
そこから逃れるには↑のような世俗的な自由を身につけることがヒントなのでは?より深く学ぶには
ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)
 
 
現代思想入門で紹介された哲学者についてはどれも面白く興味が湧いたが、なんとなく今の自分の心境に一番合ってるかなと思い、「ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)」という書籍を読み進めている。
 
また、次の週へと続く

4/9(土) つばきファクトリー CONCERT TOUR ~PARADE~,モーニング娘。'22 CONCERT TOUR ~Never Been Better!~

最近Instagramを見ていると就活がらみの投稿ばかりが目に入ってくる。おそらく私が登録した個人情報によるサジェスト機能なんだろうけど。それにその中身はたいていが「○○について調べてみました!」系のしょうもないWEBサイトと同じ匂いがする。こういうWEBサイトをみても得られるものなどない。時間の無駄だったという後悔だけが残る。Instagramでいうとファッションの裏技とか美容関係の知らなきゃ損だよ的な投稿も目に付く。これらの投稿から得られる小手先のテクニックが長期的に自分にとってプラスになるかと言えばもちろんNOだ。急がば回れとよく言うが全くその通りで、こういうプラスチックな知識よりも自分を成長させるのは、自分自身で実際に体験することや自己や他人、そして本などを通した対話である。だから私は今日も出かける。出不精な私だが出かけることで得られることというのは非常に多い。出かけるのが億劫な人間が出かけるには、何か出かけなきゃいけない理由を付けるか、もしくは自発的に出かけたくなるような趣味を持つかだ。幸い私にはアイドルヲタクという趣味がある。そういうわけでこの週末もアイドルのライブへと出かける。

 

仙台は片道一時間ちょっとで行ける非常にアクセスしやすい会場だ。昼ごはんにラーメンを食べて会場に向かう。最近はラーメンに限界性を感じてきている。もう飽きたというか。ラーメン屋にいってもチャーハンの方に目が行くようになってきている。そこのが美味しくなかった訳ではなく、しばらくラーメンはいらんなとなった。この日は昼につばき、夜にモーニングという流れ。まずはつばき、数日前に岸本ゆめのちゃんのバーイベに行ったばかりでその熱が冷めないままコンサートが見れるのはとても良かった。実際岸本ゆめのちゃんしか見てなかった。コンサートで印象に残ったのは幕間に流れたつばきヒストリー的なVTRとそれが終わってすぐにある最上級STORYの流れ。最上級STORYは今ツアーが一応初披露ぽかったけどめちゃくちゃ良かった。多好感、アッパーなポップスというアイドルに求めている要素が詰まりに詰まった良曲だった。だからなんなんだはさおりんの独壇場だった。アルバムにおいてもこの曲だけテイストが違うのだが、もちろんライブでもそうであった。とはいえ、それがいい。思いっきり笑えたし楽しかった。あとはMy Darling。自分にとってつばきと言えばこの曲になっている。そのくらい好きだ。あとは全体を通して思ったのが、9人時代の曲は樹々ちゃんパートの多さだったりセリフパートが目立ったが2nd STEPからは岸本ゆめのちゃんの方が歌唱においてメインになることが多く、2nd STEPは爽やかなポップスで12人体制からはダンスミュージック路線なんだなーということ。先述したように岸本ゆめのちゃんしか見ていなかったから他のメンバーがどうこうってのはあまり覚えていない。でもいいライブだった。武道館もチケットとったんで楽しみだ。

モーニング娘。の単独コンサートを見るのは2019年の秋以来。実に2年以上空いた。でもあの日見たコンサートの光景は目をつぶれば今でも浮かんでくる。それくらい楽しかったし、大学時代での一番の思い出である。今回はつばきもそうだったがセトリを見ないで鑑賞するようにした。情報を遮断すれば何も難しいことじゃあない。自分の情報統制のおかげで完全に所見の状態で臨むことができた。久々の単独だと実感できエンジンがかかってきたのは中盤のメドレーあたりからか。止まらない名曲の応酬に休む暇もなかった。モーニング娘。のアルバムだと15枚目が自分の中で最強だったので、16枚目に関してはそっちの路線かーと思っちゃったし、15枚目を超えてこなかったなという印象だった。しかし、この日のライブを見て佐藤優樹卒業後のモーニング娘。としては16枚目の方がむしろ正統なんだなと感じた。15枚目の中からは邪魔しないでとかロマンスに目覚めるあたりがセトリに入っていたが、現体制化では愛してナンが悪いとかの方がしっくり来た。ってなわけで16枚目の評価が上がったというか、自分の見方が甘かったというか、そもそも披露する機会が少なかったじゃねえかというか……。あと、それでいうと新曲の大・人生 Never Been Better!とChu Chu Chu 僕らの未来はそれぞれ青春Night/人生Bluesのような路線で、今のモーニングにしっくりくるのはって視点からは、やはり後者だなと感じた。ライブを総括するとやっぱモーニング娘。ってすげーなという印象と'19の単独でも感じたことだが単独のパフォーマンス見てると自然と目が行っちゃうのは真莉愛なんだよなーと思った。つばきは岸本ゆめのちゃんしか見ていなかったがモーニングに関しては目が足りないというか。でも気が付くと真莉愛を見ちゃってる。あんなに美人なのにまぶしいくらいの笑顔を振りまき、抜群のスタイルで踊る姿はくぎ付けになってしまうのも無理はない。推し変するかってとこまで来てる。

にしてもかなり充実した日だった。自分が待ちわびていたものは間違いなくこれだったんだよと確信した。楽しかった。翌日にはビヨとjuiceが同会場であるがこの2グループに関してはもういいかなってなってる。ビヨはグループ始動のタイミングで流れに乗れなかったことが大きい。juiceに関しては今は全く興味が湧かない。お金も限られてるし今年はつばきとオチャでヲタクしてモーニングとアンジュをゆるく応援するスタイル。

 

 

次のライブはアンジュ単独とつばき武道館。楽しみ。

4/6 つばきファクトリー岸本ゆめのバースデーイベント2022

三年になってからすぐに就活について考えようとしたものの大学主催のイベントが中止になりそこから三月になるまで約一年ズルズルと引き延ばしていた。三月になってから始めればいいと自分に言い聞かせた結果、大学の就職課から送られてくるメールの未読件数は二桁近くになっていった。三月一日にようやく某新卒就活サイトに登録しようとしたところアクセス集中で登録できなかったときは焦ったというよりももう終わったなとすら思ってた。それでも就活を一か月ほどなんとなくやってみてはいるが意外と何とか言ってる。内定はあるわけではないが書類審査については今んとこ全部通ってる。その中の一つから一次面接への案内が届き、自分で日程を決められたので、どうせ東京行くならってことで完全に諦めてた岸本ゆめのちゃんのバーイベに行くことにした。

 

午前の面接は具体的な中身は避けるが、自己評価としては決して高くはない。質問に対するラリーは返せたが、それで精いっぱいになってた。もっと自己アピールをすべきだったなーと。まぁ初めての面接だったのでこんなもんだろう。

 

この二日後に落ちましたよメール来たんだけどね……。というかここで自分の人付き合いにおけるダメな部分が浮き彫りになった気がした。それは自分がどういう人間かってのを内面ではなく外面からアピールしてしまうってとこだ。どこ出身だとか何のスポーツやってたとか。こういうのがその人の魅力として認識されるのは中学生くらいまでだろう。相手に自分の魅力を伝えるには。自分がどんな人間かってのを中身からアピールしてかなきゃなんない。ESの時点ではそれができていたが、面接では緊張からか、いや、これがこれまでの自分だったからか全くできていなかった。例えば、学生生活の中でどんな経験をしたかという質問が来れば、こんな経験をしたという答えだけでなく、そこから何を得たのか、どう考えたか(それに加え、それはどれだけ企業に入ってから生かせることなのか)まで答える必要がある。自分は良く会話のラリーが続かなくなっることがあるなーと感じていたが、これを意識すればもっと改善できるんじゃないかと。これまでを振り返ると、高校は部活に入っていたのでギリ友達が出来たが(とはいえ、休日に遊んだようなことは片手に収まる程度しかない)、大学では一切できなかった。その原因となるのがこの自分がどういう人間かってのを内面ではなく外面からアピールしてしまうってとこにあるんだと思う。大学入学時にこれで失敗し、何なら三年になってから結構反省してた部分なのに同じ轍を踏んでしまっていた。今後人付き合いで意識すべき部分はここだってのが分かっただけ面接行った価値が大いにある。あと面接の答え方として、着地地点に何をこたえるべきかを見出せたのもデカい。

であと多分、これはモテ論に通じる部分だと思う。んでこういうのはもっとガシガシやって行くべきだと思う。

私の今年度のテーマは、もっと衝動的に生きていく、バンバン決断していくということだ。この間読んだ「なぜ、ついやってしまうのか」という衝動と理性ついて書かれた心理学の本があるのだが、そこでは人間には衝動的なI思考と理性的なR思考の二つがあり、それらのメカニズムや衝動が起こる理由を心理学的な面から記していた。私が考えたのは、衝動とはアクセル、理性とはブレーキのようなものなのではないかということだ。ただ、世の中の大抵のことは理性的に考えたらバカバカしくてやってらんないんじゃないかと思う。そうなると、ブレーキをかけまくっちゃってなんもやんなくなっちゃうわけで、それが人の成長に対して良いのかって考えると良くないよねと。それを頭に入れると、楳図かずお漫画ではそういうの抜きで衝動的に決断できる子供の神秘性や神聖さをテーマにしているのがなるほどなーと感じる。自分の人生を振り返っても、結局うまくいってるなと感じるのは衝動的に動いた時、というよりアクセル全開のときなきがしてならない。でもこれも神の見えざる手のようなブレーキとアクセルの絶妙なバランスで成り立ってるのかもしれないし、そこで善悪二元論っぽく考えるのも多分違う。

 

この本で一番しっくりこなかったのが、衝動的に動いた結果、いい結果になるときとならないときがあり、それはなぜかということについて記されていた箇所である。この本では例として、バス運転手が川にかかった開閉式の橋を走行中に手違いで橋が閉じ始めてしまい、運転手のとっさの判断(衝動的な)で閉じ始めている橋を無理やり走行し、何とか向こう側の橋に着地し一命をとりとめた例と、火事現場でとっさの判断で非難した結果、その避難場所が被害が多くなり、元居た場所の方がむしろ安全であったという例だ。この本では、これらのように衝動的な行動がもたらす結果の違いについて、かなりのページ数空いた後に結論が出されたため、この例を読んだ時点では、いやいや、結局結果論かいと思っていたが、この本の結論によると、衝動的な行動は、日常の多くの場面で行われているが、この行動自体は意識や努力を要さないため、何かしらの結果が付随してようやくこの行動を認識できるらしい。まぁ結果論っちゃあ結果論だ。この本自体、衝動買いなど衝動が支配してしまう悪い部分を改善することがテーマっぽいから仕方ない。ただ、これを読んで思ったのが「インサイドヘッド」という人間の記憶ってのは結果に美化されがちだけど、その過程では実はいろんな感情があったんだよ、みたいなことがテーマのメッセージ性が強い映画があるんだけど、その主人公の描かれ方が、衝動的な行動は努力を要さないから結果に美化されがちってのに似てるなと。あと、自己啓発本のほとんどがこれに当てはまる気がする。衝動的な行動は悪いことではないと思うけど、結果が美化されがちってのは気を付けたほうがいい。

 

あと、この本でもう一つ面白かったのは、人間には自由意志など存在せず、行動のあとに意思が生じるってので、実はこの本で読んだのが初めてではないんだけど(確か社会心理学講義とかいう本でも見た)、衝動的な行動にからめるとまた面白い。結局、衝動的に行動しても結果的にそれを肯定するようになっている。
モーニング娘。の名曲「I WiSH」に、人生って素晴らしい、いつかきっと納得できるさ
という歌詞があるが、これらの人生を肯定する歌詞は結局の所真理なのかもしれない。
自分で自分を正当化し、肯定する。それは人間誰しもが持つ傾向であり、そうやってみんな生きている。どんな選択をしようと長期的に振り返れば肯定できる、プラスになるんだよってことは生きてく中の様々な場面で勇気をもらえる。だからこそどんどん決断し、行動することで自分の経験値をあげていきたいなとより思うようになったわけだ。

 

あと一番実用的だったのは人間の脳は分離脳といい、右脳が感情を、左脳が理性を司っており、右脳は左半身を、左脳は右半身とそれぞれ逆の身体機能に付随しているらしく、それを狙ってスーパーマーケットは向かって左に商品を陳列して時計回りの導線を作ることで衝動買いをさせようとしているんだとか。そこで、自分のデスクの左側に物を置かないようにしたところ集中力が上がった様な気がする。ただ、行動心理学というのは指揮者に言わせれば何の理論もない学問らしい。まぁプラシーボ効果だとしてもプラスになってんなら別にいい。

 

この日の話に戻る。面接が終わったら即ハロショへ行くための秋葉原へ向かう。ヲタクの鑑だ。何も考えず買い物をしてたら5千円を超えててちょっと後悔。そして、こっちまで来たのにダルイことにひとつオンライン説明会を受けなきゃならない。実は一回大学主催の合説で聞いたのだが、企業主催の方で聞かないと本エントリーできないシステムで、ホントはもうちょい早くからやってたのだが自分のミスで申し込み忘れ、わざわざ出先で聞かなきゃいけない結果になった。めんどいのでカフェで受けることにした。オンラインの説明会は基本マイクオフで聞くんだが一応スーツ着て顔出しするのがセオリーだ。たまーにカメラオフの人もいて、そういう人はやる気ないんかな?と思ってたが、今回自分は出先かつ一度聞いたのもあってカメラオフにした。自分で経験したから分かることだが先ほどのやる気がないのかという疑問の答えはYESだ。説明会などハナから聞いていなかったかのように、ひたすらグッズを開封したり、ライブに向けてのスケジュール確認をしていた。

説明会、いや、もはやカフェでの休憩を終え、ハロヲタ新卒編は終了。本日のライブ会場がある横浜のみなとみらいへと向かう。

 

かなりキツキツのスケジュールで岸本ゆめのちゃんのバーイベ会場へ到着。即会場入り。

OPはOA岸本ゆめのとしてプランクトークの公開収録。会場では正直あんま見えなかったけど後日Twitterに上がってたのを見てこんな感じだったのかと二度楽しめた。事前に告知があったように歌メインらしく即パフォーマンスコーナーへ。

初っ端つばきメドレー。めちゃくちゃいい。キュートさ、カッコよさいろんな面が楽しめた。次は思い出の曲コーナー。Love take it all以外はバラード多め。Memory青春の光がめちゃくちゃよかった。First Loveを歌ったんだがこの曲は宇多田ヒカルというより大友康平のイメージになっている。ちなみに岸本ゆめのちゃんは「だ(は)ぁぁあーーー⤴」だった。松浦亜弥の「ホームにて」で涙腺が一瞬緩んだ。たまたま数日前にこの曲が入ってるアルバムを友人に借りていたので終演後即聴きこんだ。岸本ゆめのちゃんバージョンの音源が欲しいレベルに素晴らしかった。イキイキしてる人を見て元気をもらえた。
インスタやブログで体をめちゃくちゃ鍛えている報告をよく目にしていたが、やはり筋トレってのはあらゆる成長プロセスに通じる面があるのだと思う。身体を鍛えるってのはそういう点ではメリットがある。余談だがゆめのちゃんのMCでこの日のためにカラダづくりがんばったというアピールに対して不健康そうな観客席の面々からの反応が薄かったのは思わず笑いそうになった。

他で言うと、ゆめのちゃんの私が前に進んでも着いてきてくださいという言葉はなかなか深いなと思った。応援する対象がメジャーになっていくと離れていく人が一定数いる。正直私もココ最近はハロコンの規模感よりもMSMWやバーイベの方がいいなと思っていた。ただそれは独りよがりな考えだなと感じた。応援される側としてはそうだよなと。多分、そうしてくうちにどんどんアングラになっていく気がする。

歪なファン心理をズバッと狙い撃ちしたようなこの言葉によってヲタクとしてのあり方を考えるようになった。

あとは何より彼女自身の人柄のよさに非常に感心した。自分にはない良さだからなおさら。先輩へのリスペクト、グループのメンバーへの愛や思いなどなどジャンプ主人公のようなアイドルに対するまっすぐな彼女の姿勢にファンとしてではなく一人の人間としていい刺激をもらえた。

うん。ホレましたよ。まじでカッコよかった。

 

帰りはもちろん夜行バス。バスタ新宿での待ち時間ほど孤独を感じる時間はない。本当はこんなもんに乗りたくないんだけど。ただ、バス内で寝れたかどうかでだいぶ後味が変わってくる。今回は熟睡できた。個人的に夜行バスはネックピロー必須。そんなこんなで帰宅し、週末に行われるつばき単独に向け、日常へと戻る。