目で見たものだけがリアルだろ

孤独、抑圧、悲しみと哀しみ

旅とともに

人類学者の磯野さんの、ダイエットをテーマに人々の社会の奥にある価値観を探る『ダイエット幻想』という著書を最近読んだのですが、そこに、孫引きは良くないとは思いますが、歴史地理学者の湯澤さんという方が日本人の戦後の食を描いた『7袋のポテトチップス」という書籍で現代に至るまでの食の変遷を書いた部分が引用されていて、その部分が面白かったので引用します。

「言葉だけが先鋭化していく社会の中では、自分の五感で確かめた主観的な情報よりも、誰かが発信した電子信号となって届く情報のほうが客観的であると疑わずに、それを信じる人々が多くなり、先鋭化した言葉が拡散し、増殖していく。

これまで私たちは感覚を手ばなして言葉を使うようになることを「進歩」と考えてきた。主観的にではなく、客観的に説明する方法を追い求め、一期一会の事ごとよりも、事物の再現性の中に、科学的根拠を見出してきた。こうした状況は本当に進歩と言えるのだろうか。」


こういった世の中で、自分の感覚とそれによる主観を培っていけるのは何だろうかと度々考えます。「旅」をすることはおそらくその一つなんじゃないかと思います。


近所の銭湯にあるサウナでTVを見ていたときにふと山口県に、民俗学者宮本常一の収集した資料が展示されている宮本常一記念館なるものがあることを知り、いつか行ってみたいと思っていたところ、ちょうど山口県でSTUのツアーがあったのでそこに行きがてら行くこととしました。


この施設がある山口県周防大島町に向かいます。玖珂ICを降り大島大橋へ向かう道は山に囲まれた景色で、なんだか自分の地元を思い出しました。そういえば山口という地名に「山」が入ってるのは、そういうことなのかなと思って調べたところ、諸説あるものの、盆地である地形もその一説としてあるようでした。大島大橋に着くと、眩しいほどのオーシャンビューが広がります。今回の目的地は島の東側(内陸とは反対側)にあるため、海を横目にしばらく車を走らせます。

道中、道の駅に寄ります。

すぐそばに海が広がっていたので写真を撮りました。


海の向こうに島があるという瀬戸内らしい景色です。この日は晴れていてロケーションがとても良かったです。

 

事前に観光サイトでなんとなく目にしていた真宮島という、普段は陸続きではないが干潮時に島までの道が出来て行くことができる場所がすぐ近くにあったので寄ってみると、ちょうど干潮のタイミングのようだったので渡ることにします。

なんのこっちゃ分からずに行ってみましたが、なんとなくの特別感とロケーションの良さにテンションが上がりました。

よくわかりませんが、岩場に、人が積み上げたような石の塔があります。自分はやりませんでしたが、こういうのを見ると自分も積み上げてみたくなる衝動に駆られます。きっと、そういう人たちが積み上げていったものなんだろうと想像しました。上陸したはいいものの、島はというと、足場はゴツゴツした岩場で歩きにくく、陸地らしい陸地も無く、想像していたアイランド的な島のイメージとは違っていてすぐに引き返しました。

昼食をとります。本当はしらす丼を食べたかったのですが、今日は販売無しとのことで穴子天丼にしました。味噌汁もあら汁だからおすすめだよと言われたので注文しました。


ちゃんとしていて美味しかったです。タイの天ぷらとかも入っていました。
味噌汁は外が暑すぎてそれどころじゃないという感想でしたが、ちゃんと美味しかったです。自分は磯臭さが大の苦手なのでクセの少ない乾燥わかめ以外のわかめには非常に警戒しているのですが、ここのわかめは磯の香りの良い部分(海苔のイメージ)だけが出ているわかめで美味しかったです。

 

お土産コーナーでこちらの名物である、いりこ(いわしの煮干し)、みかん風味のクラフトビール、あとは柚子胡椒ならぬ蜜柑胡椒というものを買いました。こういう、使い道は限られているけど家にあると嬉しいみたいな調味料って、独特の魅力がありますよね。料理や自炊が楽しくなります。

 


その後、今回の目的地へ向かいます。

入り口はそれと分かるような外観をしていますが、中に入ると生涯学習センター(地域の公民館だとか図書館のようなこぢんまりとした場所でした)の一フロアにある施設なので、あまり文化施設的な感じはせず、肩透かしを食らったような気がしました。靴を脱いでスリッパに履き替え、役所のようなデスクでお仕事をされている職員の方を呼び、¥300というお手頃な入場料を支払って展示室に入ります。

展示室には、宮本の集めた文書や蔵書、写真や民具といった資料が展示されています。

 

宮本は1907年に周防大島で生まれ、故郷を離れて大阪の郵便局で1年務めたのちに同じく大阪で小学校の教員として12年ほど務めます。そこで働く傍ら、柳田國男渋沢敬三といった人物が書く民俗学に興味を持ちます。その後、師事する渋沢敬三が主催する研究所に入所します。渋沢から「学者はたくさんいるが、本当の学問が育つためにはよい学問的な資料が必要であり、民俗学ではその資料が乏しいため、君には学者ではなくその発掘者となって欲しい」といった旨の言葉を送られた宮本は、その言葉を忠実に守り、民俗調査に打ち込みます。こうして、全国各地を自分の足で歩いて訪ね、その地域の住人から暮らしぶりを聞き、それを書き留めるという、アカデミックな視点からは「傍流」とされる宮本の「歩く・見る・聞く民俗学」が生まれます。

 

展示は大きく4つに分かれており、出自や人物に関する紹介パネル、写真資料の展示、民具に関する展示、蔵書の展示がありました。順を追って見たので、それぞれ書いていきます。

 

出自に関する展示では、宮本の出自から、渋沢との出会いや宮本の調査・研究のスタイルにつながるルーツなどを知れて面白かったです。


また、調査者としての部分だけでなく、人物像に関わる話も見れて面白かったです。特に、宮本が民俗学者として、そして離島の出身者として、離島に住む人々の暮らしを良くしようと常々考えており、全国離島振興協議会の幹事長に就任した際は離島生活の改善に尽力し、同島に隣接する沖家室島という離島を結ぶ橋を架橋させるなどの功績を残していたという話を見た際は月並みな言葉ですが、感動しました。どんな人物だったのかを知ることができてすごく面白かったです。

 

 

写真の展示です。宮本は調査に際し、なんだろう思ったものや記憶しておきたいものを見つけたらカメラをメモがわりに使っていたそうです。宮本が撮った写真の特徴として、撮影時期や撮影意図が分かるものが多いというのがあります。周防大島の各地域で宮本が撮った写真とその説明が書かれたパネルが展示されていたのですが、その説明文を通してではありますが、写真に映る地形や民具、人の行動といった情報が写真に幾つも込められていることがわかります。

きっとですが、宮本は一つの写真に対して、このパネルにある説明のようなことを全て言葉で説明できるのではないかと感じました。目に映る景色を「風景」として捉えてしまうと、そこにある人々の暮らしや生活実践といった情報は捨てさられてしまいます。そういった展覧物的なものの見方、写真の撮り方ではなく、目に見える景色にある情報を拾うことの重要性やそこに興味を持つことの大切さ、何より、そういったふうに世の中を見ることの面白さを伝えられた気がします。

真宮島に関する記述もあり、昔はあのこんもりしてる山のような場所は段々畑になっていて桑を栽培してたそうです。ただの手つかずの自然という印象しか持たなかったですが、あの場所にも人々の暮らしがあったことを知り、しみじみとなりました。

そういえば、昼食をとった場所で、その店の店員の方に対して観光客が、さきほど自分が訪れた真宮島について話していたのを横目に聞いていたのですが、あれはどんなところなんだという観光客の質問に、特にこれといった物はないけど普段は島まで渡れないから渡れたらラッキー!みたいな場所なんだ、といった返答をしていたのを思い出しました。観光とは何だろうと考えさせられるような一連の出来事でした。

 

それと、この日、真宮島に行く道で見かけてなんか面白いなと思って撮った石の階段でしたが、

↓のパネルのように周防大島が誕生の地とされる「足場石」というもののようでした。(本来は田畑で使われる技術らしいので違うかもしれません。)こういうところに写真を撮ることの楽しさがありますね。

 


民具に関する展示です。宮本は上述したように学術的な資料を収集する民俗調査を行いました。その民俗資料の中でも、宮本が特に調査をしていたのが民具です。民具の機能を通じて地域の生産や生活の技術、人間の生態学的な研究を見定められると考えた宮本は、後に「民具学」としてその研究手法を体系化しました。展示では宮本が収集した民具資料や、宮本の直筆による民具の説明文を見ることができました。

 

1900年初頭というと今から約100年前になるわけですが、100年で人々の暮らしぶりはここまで変わっているのかと感じました。民具やその使い方の説明を読めばその時代の人々の暮らしぶり自体は想像することができます。しかし、それが今から100年前の日本での暮らしぶりであると言われると正直想像がつきません。それくらい時代の変化のスピード感というのはすごいのだな、と衝撃がありました。それと、宮本が民具研究を行うに至ったルーツは上述した渋沢からの言葉と思いますが、人の一言でこういった功績につながると思うと、あまりいい表現とは思いませんが、何かすごく言葉の力や意志の力みたいなものを感じました。


蔵書の展示です。宮本の民俗学は「歩く・見る・聞く」ですが、「その前後に「よむ」と「かく」という膨大なデスクワークがあった」とのことで、宮本の個人の蔵書の展示がありました。主に人文学と農学が多かったように思います。戦禍の中、大阪空襲でその大半を失ったとのことですが、生涯をかけて収集したそうです。また、宮本は本に線を引いたり書き込みをするようで、実際のその部分を見ることができて面白かったです。どこに興味を持って読んでいるのかを知れるのは見ていて面白いです。書き込みは形式的に書いてるというわけでなく、宮本が本の記述の中で感心した箇所について感想を述べていたり、時事であればその時の日記的に反応しているような書き込みが見られました。

 


本館内の蔵書コーナーもあったため、少し眺めてみました。

全国の民俗学に関する本や調査資料から、農学などに関する本がたくさんありました。自分が興味を持って目を光らせたのは、宮本が日本観光文化研究所の所長時代に編集を行なっていた「あるく・みる・きく」という観光雑誌でした。

40年以上前に刊行された雑誌でしたが、ほぼ全巻置かれていました。その中でも100号の刊行記念号に載っていた宮本が書いた文章がすごく面白かったです。旅の趣だとか旅情みたいなもの、さらには序文で挙げたような問いかけについて考えさせられました。

また、これを読むとどんな雑誌かというのもなんとなく分かっていただけるのではないでしょうか。


施設の一角にNHKの100分de名著という番組で宮本の『忘れられた日本人』という著書が特集された際のDVDが見れるスペースがありました。

自分は一ヶ月くらい前にこの番組の書籍版と『忘れられた日本人』を読んだ上でこちらに訪れたのですが、前情報を一通り入れらたのと、この書籍版と展示の内容が被っているのもあり、展示の内容がスッと入ってきました。この番組(自分は書籍のものしか読んでいないのですが)は、いわゆる名作と呼ばれるものを取り上げてその分野の専門家が解説するような内容なのですが、対象の作品や作者についての解説書や入門書的な役割であったり、読む前のあらすじの導入を知ることができたりと、どのタイミングで読んでも楽しめて結構好きです。何より、作品や著者の背景だったりをその分野の専門の方が解説するため、「名作を名作として鑑賞する」だけでない鑑賞の仕方を与えてくれるのがすごくいいと思います。自分は2年ほど前に手に取ったものの途中で読むのをやめてしまった『忘れられた日本人』を、上述したサウナで見たTV番組を見たタイミングでまた読み直そうと決意し、100分de名著を一度挟んでから読み直したのですが、内容の理解が格段に上がり、すごくいい読書体験ができ、この日にまでつながったような気がします。そんなわけでこの100分de名著はおすすめです。また、機会があればご一緒に宮本の作品も手に取ってみてください。

 

約1時間半ほど滞在し、200枚近く写真を撮ってました。また、面白かったところや気づきはメモしたりしました。すごく面白かったです。とても満足して、この場を後にします。


さて、この日はSTUのライブに行くため、島を後にします。帰りの道を運転していると、行きの運転では全く気にも留めなかった、目の前に広がる風景の中にある石垣が目に入り、さっき展示で見たやつだ!とテンションがあがりました。



こういう風に風景の中にある地形や建造物に意味や情報を見て取れるようになったことに、良い余韻を感じられました。こういう風な視点を持てるのは展示を見た後のすぐだからかもしれませんが、時間が経ったとしても目の前でのことや目の前で起きていることに疑問を持ったり興味を持てるようになりたいと思いました。そんなことを考えながら、小一時間車を走らせます。

 

 

この日の会場はライブハウスでした。

STUのライブは着席指定が基本なのですが、今回は珍しくスタンディングエリアが設けられていました。整理番号を見ると、二桁の番号の中でも早い方で、そこそこ引きが強かったです。スタンディングは荷物は極力減らして臨むのが基本です。自分はこの日は車で来ていたので荷物を最低限まで減らすことができましたが、荷物を減らすためにわざわざショルダーバッグなどにしてきた他のオタクに対して、入場の直前も直前にクロークを使うよう指示が出ました。わざわざ小さいカバンにしたのにダメと言われたこと、指示が出たのが直前だったことでオタクが不満を垂れていたところ、アルバイトと思しき若者スタッフが「自分たちも急に言われたし、こっちも言われたからやってる」といった反論をオタクにしていて、心の中で「Z世代だ!!!」となってなんかテンションが上がりました。

良番だったこともあり、立ち見の真ん中あたり2列目に行けて、なおかつ前の人が自分より身長が低かったので視界良好でめちゃめちゃ良かったです。その感動を伝えるために視界の写真を撮って姉に送りました。

 

ライブが始まります。今回はコンサートツアーの内容ですが、この二週間前ほどにホールで見た上で、この日ライブハウスで同じ内容のコンサートを見ると、両者の違いを感じられて面白かったです。会場の規模の違いによる距離感やステージングの雰囲気の違いを楽しめました。ライブを見ながら、この人のパフォーマンスはホールの方がより活きるなとか、ライブハウスの距離感とこの人の雰囲気は合ってるななんてことを思ってました。決して、ライブハウスのような規模がお似合いだといったニュアンスはなく、自分の目で見た上でこういう魅力を感じたといった話です。

それから、瀬戸内の声というSTUのアンセム的な曲があるのですが、今ツアーでは入場時にメンバー直筆のその曲の歌詞カードが渡されて、演奏時にそれを見ながらみんなで歌うという演出がありました。

落ちサビでメンバーが客席にマイクを向けてオタクたちがその部分を歌うのですが、その際、センターのメンバーの目に光るものがありました。曲自体に御涙頂戴みたいな印象が付くのは個人的にあまり好きではないのですが、前の週にそのメンバーのラジオの公録イベントに参加してそのメンバーのこれまでの活動であったりセンターに選ばれたことの思いだったり意気込みだとかを生で聴いたこともあり、その涙に並々ならぬ物語があることを感じとりました。ちょっとジーンと来ました。このツアーは最新シングルの表題曲を冠したツアーとなっています。メンバーだけでなく客席にいる人たちそれぞれにそれぞれの物語があるとは思いますが、この日に限っては自分にとってこのメンバーの日だったなと思いました。

アンコールまでの間にスマホを開いたら、先ほど自分が姉に送った写真に対して、「おじいが多いね」という返信が来ていました。自分にとっては見慣れた環境だったので気にも留めていませんでしたが、見る人によって写真の意味も違ってくるんだなと、少し感慨深かったです。確かに周りを見ればそういう風景が広がっています。それを踏まえた上で、自分はこれからどんな気持ちでアンコールを見ればいいんだろうかとなりました。

何となく行くライブも素晴らしいですが、この日は「旅」というテーマがあったからか、いつもよりも受け取るものが多かったように思います。毎回やれるわけではないですが、またこういう日があればいいなと思いました。とても楽しかったです。

等身大の魅力

今年で今の居住地に住んで3年目になります。その中でも自分にとって大きい出来事だったのが、1年目の終わりに唐突に職場の事務所の移転を告げられたことでした。自分としてはただただ通勤で歩く距離が増えるし、1年後に移ると分かっていたら初めから住む場所だって色々考えたのに、とホントに先に言えよと思っていましたか、仕事内容が特に変わるわけではないのでまぁ仕方ないかとなりました。後になって思いますが、こういう環境が変わることによるゴタゴタは人生経験として経験しておいたほうがいいとも思います。ただ、当時は、どこか納得がいかなかったのが本音でした。

でも良いこともありました。それは、自宅と職場の距離が長くなったことで寄り道ができるようになったことです。前までは職場にめちゃめちゃ近いところに住んでいたので、仕事が終われば真っ直ぐ帰るだけの生活でした。しかし、今は職場と自宅の間にカフェチェーンやマクドナルドのようなちょっと休憩できる場所があり、今日は本が読みたいな〜みたいな気分の日にふらっと出向くことができるようになりました。社会学的に言えばサードプレイスです。ごくごく短い会社員生活の中での気付きですが、かの「なぜ働いていると〜」じゃあありませんが、労働が終わって家に帰ると“何も“できないです。何も考えずにご飯を食べて風呂に入って寝るだけです。本を読むことはおろか、漫画もアニメも映画ですら見ることも9割方ありません。食事や風呂を除いて、自分(独身男性)にとって家でやることと言えば、2年前に買ってすでにやり尽くしたサッカーゲームをするためにSwitchに手を伸ばすか、YouTubeSNSをゾンビのように眺めてるかのどちらかで、そのどちらかをしているうちにあっという間に寝る時間になります。これは気力の問題ではなく、もうそういうものなんだという気付きと諦めを得て久しいです。そうは言ってもやはり家で何もしていないことにヤキモキしてしまうんですがね。ただ、先述したように平日でもちょっと今日は本読みたいなとかいう日に寄り道できるようになると若干ですが生活にメリハリがつきます。このように、今までは自宅と職場を結ぶ線だったものが面になったことは、これは大袈裟な言い方ではありますが、自分にとってのパラダイム・シフトでした。
そして、アイドルオタク的な話をすると、これまでの職場の場所なら諦めてたであろう平日にあるイベントにも行けるようになりました。特にリリイベ会場になりやすい場所が今の職場からめちゃめちゃ近いので、そこはすごくありがたいです。


今回は、その会場であったリリイベとその夜にあったイベントに行った日の話です。

イベント前にCDを買ってライブの優先エリア券をもらうわけですが、自分の引きの弱さを遺憾無く発揮した230番台という番号でした。この整理番号はワンピースのアニメの話数で言うとどの辺なんだろうと気になって調べたところ、ウォーターセブン編の序盤あたりでした。自分ではめちゃめちゃ面白い例えだと思って調べたものの、全然しっくりこなかったし、そんなに面白くなかったですね。番号の引きだけでなく、ここでも不発です。


今回は推しメンが別仕事で不在の現場でしたが、楽しそうな現場や行ける現場には行くというスタンスなので行きました。これこれのイベントには誰々が出ませんというのについては、先に発表されていればたとえ推しメンだろうとあぁそうなんだとしか思わないのが正直なところです。とはいえ、イベントが近づくに連れてなんかいまいちモチベが湧かなかったので、やっぱり推しメン見たかったなとか握手したかったなという気持ちがあることに気付きました。そういう気持ちは有耶無耶にしてはいけませんね。でも、ライブはやはり楽しかったです。新曲もあまり聴いていなかったのですが、この日のステージを見てだいぶしっくりきました。


この前の週にオチャノーマのリリイベにも行っていて、そのときに気付いたのですが、いつからか正面のモニターに定点映像が映るようになっていました。オチャの日もこの日もかなり後方で見てたのでリアルタイムで映像が流れるのはありがたかったです。会場の上の方を見回すと監視カメラ風のモニターカメラがあって、メンバーの動きに合わせて追尾(というか操作)していました。自分はよくここで仕事をサボってるので、それもこのカメラに映ってるかもな、と思いを馳せたりしました。

ライブ後の握手会の時に、メンバーに「今日推しメンいなくない?(のに来たの?)」と言われて、「推しメンだけで生きてるんじゃないんだよ!!!」となりました(流石に言ってはないですが)。そんな薄っぺらい人間じゃないよとも思いますが、言い方が攻撃的すぎて良くないですね。しかし、今はこういう人のほうが多数派なんでしょうか?

 

握手をサッと済ませ、夜のイベントに向けて一旦家に帰って身支度をします。これから人前に出るには髭が伸びすぎているなと思い、この日2度目の髭剃りをしたら肌がズタボロになりました。まだ青いほうが良かったな……となりました。すでにぐったりしている身体とは裏腹に、平日の夜という変な時間にはじまるイベントに参加することの非日常的な高揚感か、いつもより多くとったカフェインのせいか、気力はいつも以上にありました。

 

会場は商業ビルのテナント内にあるのですが、すでに会場以外のテナントの営業時間は終了しているため、エレベーターはややホラーです。

普段はドリンクチケットで水(それも340mlというふざけたサイズの水)しか交換できないのですが、缶酎ハイもあったようでした。自分は気付かずに例の水を交換していたので、他人のプシュっという缶を開ける音が羨ましくて仕方なかったです。


今回のイベントは、今シングルのセンターのメンバー(プラス2名のメンバー)が出演し、グループのレギュラーラジオの特別編の公録と、センターのメンバーがやりたい企画をいくつかやるという内容でした。メンバーがやりたい企画の方は、歌唱コーナー、スイカ割り、参加者へのグッズ抽選の3つです。歌唱コーナーの方では、すっかり深夜テンションになったフロアのノリと、この日一日中イベントや告知に走り回ってお疲れだろうメンバーのゆるい感じが相まって、すごい楽しかったです。スイカ割りは、夏らしいことをしたかったからという理由でやったそうです。衣装が汚れないように着ていたブカブカのレインコートと、へっぴり腰でバットを振り下ろす姿がとても可愛くて癒されました。一応2発目で成功してました。グッズの抽選は全然当たりませんでした。微塵の気配もなかったです。


ここまでが前半ブロックで、後半がラジオの公録です。ラジオのMCをしているローカルタレントの方が出てきたのですが、さすがと思うくらい前説が上手くて会場が一気に盛り上がって、メンバーがちょっと引いていたのが面白かったです。


ラジオは新曲についての内容がメインで、センターとしての意気込みや曲の解説などを聴けました。こういうのを生で聴けるのはすごい良いなと思いましたし、曲に対する思入れができて、この曲が好きになりました。今回新曲のテーマが「傷つき」に関するものであったため、MCの方になんか傷ついたエピソードがあるか聞かれたメンバーが、以前そのMCの方の何気ない一言(「今日も頑張ろうね」と言われて、いつも頑張ってないんだ・・・となった)で傷ついたとの話をしていて、それに対して若干プロレス的なやり取りがあって盛り上がりました。その後、センターに関する意気込みについて聞かれていた際に、そちらは、ファンからの何気ない一言(「あなたがセンターになっているのを見たい」という言葉)からセンターになろうと数年前から意識し準備するようになったという話をしていて、何気ない一言で傷つくこともあれば、逆に自分のポジティブなエネルギーになることもあるんだというのをこの方の人生を通して感じて、ちょっとしみじみとなりました。良いもの見たなとなりました。

その後、新曲にかけた「最近傷ついたこと」というメール募集のコーナーがありました。

募集されていたのがイベントの2日前だったのですが、この画像にある例を見るやいなや、自分の得意分野だと思ってメールを送り、何なら読まれそうだなという謎の自信があったの(と、イベント自体も面白そうで気になっていた)で、送った翌日にチケットを取りました。
結果、自分が送った以下のエピソードを読んでもらえました。

「最近の」エピソードというテーマでしたが、本当のところは2、3年前くらいのエピソードなのはご愛嬌です。これ以来、後輩イップスになり、後輩や年下との接し方が本当にわからなくなっています。助けてください。

 

読んでもらった後に、メンバーが「私はこれ(ラベル読み)やっちゃうタイプ」と言っていて、えぇ……と声を漏らしてしまいました。エレベーターに誰かと乗った時も気まずくなってモニターとか天井を見がちとも言っていました。お前が言うなよと言う話ですが、ちょっとわかるなと共感してしまいました。その後、きまずくなった空気の解消法を話していたのですが、「こういう成分が入ってるんだ」と話しかけるだとかでラベルから話を広げれば良いんじゃないかと言っていました。当時のことを思い返すと、なんかそれをやられたのがショックで腹が立ってきて、口には出さなかったものの「(ラベルに)なんか面白いこと書いてある?」という嫌な言い方しか思いつかなかった自分に対して、本当に嫌な奴だなと思ってしまいました。

 

また、このコーナーがグランプリ形式で、なんと自分の送ったエピソードをグランプリに選んでいただきました。メンバーが選んでくれたのか局の人が選んでくれたのかは不明ですが、現地にいた限りではメンバーが選んでくれたような様子だったので、そう思うことにしておきます。景品でノベルティーのステッカーと、曲名にかけたサイン入りの絆創膏を送ってもらえるそうです。
他にも4、5人ほど読まれていましたが、他の方の送ったものはいわゆる「トホホ・・・」的な感じのエピソードが多かったので、自分の等身大な表現が読まれて嬉しかったです(自画自賛)。

 

とはいえ、こういう「傷」や「傷ついたこと」は、書くこと・言うことによって、解消されなくとも自分の中で何か形になるというか楽になるとは思います。そういう時に、「トホホ・・・」という形式にすれば間違いなく書きやすく他人に言いやすくなるわけですが、自分や他人の心を動かすようなものの多くは、簡単ではないですが、等身大な表現であると思います。先述した、メンバーの周りに言われた何気ない一言に関するエピソードにしみじみとした感動を覚えたのは、彼女の態度や話し口がどこまでも等身大であったからだと思いました。自分の目の前で起こった出来事とそこから考えたことを通して他人の魅力に気付けたという経験ができたことはすごく良い体験でした。「推し」とかそう言うのでは測れない充足感です。きっとみんなに良いところや魅力があるんだろうなと思いますし、そこに気付くことのできる人でありたいです。もちろん自分自身の良いところや魅力に対してもそういう態度でいたいですね。

 

帰りのお見送りで「グランプリ自分です!ありがとう!」と言ったら、「だよね〜!」と言ってくれて、思ってるよりちゃんと認知があるという手応えを得て帰路につけました。自信過剰にも思える動機で行ったイベントでしたが、コーナーも公録も全て楽しくて面白く、非常に行って良かったなと思えるイベントでした。あとは、景品の絆創膏が届くのを楽しみに待ちます。自分が何か傷ついたことがあってもそれを見れば、この日の楽しかったことを思いだして心が救われるんだろうなと思います。

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ジェーン・スーのラジオに送れよみたいな悩み

比喩のような修辞法(レトリック)って、言葉以上のパワーがあると思います。

自分はいわゆる日本企業みたいな会社の会社員なんですが、1年目のときに本当に仕事が全く課されていない宙ぶらりんな状態がしばらく続いていて、会社にいるのもなんか落ち着かなくてサボってカフェに入り浸って本を読んでたりしていた時期がありました。当時は自分はこんなことをしてていいのだろうか?と暗い気持ちになっていたりしましたが、ある日、「これは不労所得ならぬ浮浪所得なんだ」という例え(というかダジャレ)が頭に浮かび、それが自分の中で妙に納得感があって、以降は現状に開き直れって胸を張ってサボるようになりました。現状は何も変わっていませんが、言葉一つでなにかが解決したような、そんな感覚があったと思います。このようにレトリックは単にダジャレ的な面白さもありますが、長々とした説明よりも端的な言葉や表現で自分自身を納得させたり、他者を説得させることができるものだと思います。だからこそ、レトリックという言葉には、言葉巧みに他者を欺いたりするようなニュアンスも含まれていたりします。特にそれがビジネス(最近は医療広告)なんかに結びつけられている時は、注意が必要ですね。

さて、他にもそんな自分が経験した比喩表現の例を挙げようと思います。まずは、下の写真をご覧ください。

これは、とあるアイドルグループがやっているラジオのお悩み相談コーナーで自分が送った悩みが採用されたときの、そのお悩みへの解答書みたいなものです。

このラジオ番組は、回によってまちまちですが、「夜中についお菓子を食べちゃいます」みたいなお悩みが読まれたりする番組です。送ったのは自分自身とはいえ、そんなラジオ番組にこんな重々しい悩みを送ってしまったことにちょっと恥ずかしさすら感じていたのですが、この悩みに対して「ジェーン・スーのラジオに送れよみたいな悩み」という、比喩というか自分自身に対するツッコミが浮かんだことで、なんか妙に自分の中で自信がついてTwitter上で公開することができました。(分かる人には伝わってもらえたかと思います)

奇遇にもこういう比喩ってジェーン・スーさんはすごいうまいし、なにより面白いですよね。氏のポッドキャストをよく聴くのですが、そういうのがバンバンでてきます。さきの表現は、氏やそのリスナーを雑に扱ってるような感じが否めないですし、そこはちょっと悪意があるかなと反省する面もありますが、念のため、自分は氏のエッセイも買って読むくらいにはファンです。(それとこれとは別かもしれませんが。)嫌な気持ちになったら申し訳ありません。

 

ちなみに、この、他人に自分の助け(自分は分からないことを聞いたりすることというイメージで書きました)を求められないという悩みは、若者の間でよくある悩みのようです。

以前、YouTubeシンガポールの局が作った日本の若者の孤立に関する番組を見ていたとき、そこで初めて知ったのですが日本はそもそも孤独な人が多い国という印象があるみたいです。ただ、そのコメント欄にも現地の言葉で「自分も同じだ」とか「一人で抱え込んでしまう」といったコメントがあって、おそらくグローバルな範囲で現代社会が抱える問題なんだろうなと思ったりしました。(ちなみに、斎藤先生がコメント部分でちょっと出演していると自身で告知しているツイートを見て、番組を見るに至りました。)

youtu.be

 

さきの悩みに関しては、自分の中で「ちょっと場違いな恥ずかしい悩みを送ってしまった」から「レトリックでくすっと笑えるものに変えた」という単なるエピソードトークで終わらせてしまっていましたが、もうちょっと範囲を広げて考えていく必要がありそうですし、ちょっとやってみようと思います。

 

昨年、アディクション(種々の依存症)に関する本を読んで以来、その分野に興味を持っています。そんな中、アディクションを専門とされている精神科医の松本先生という方が書かれた、子供がカフェインを摂取することに対し警鐘を鳴らしているネット記事があったのですが、そこに自分が考えているような「孤独」に関する興味深いコメントがあったので引用します。

 

若い時から、カフェインのような化学物質によって気分を変えるという対処方法を学んでしまうと、つらい時に休んだり、人に相談したり、助けを求めたりすることをせずに、化学物質で気分を変えて前に進むようになってしまう。これが薬物依存への第一歩です。エナジードリンクが、その入り口になっているのではないかと思うのです。」

www.fnn.jp

この、自分自身の辛さや悩みを「自分自身で」解決する術が、自分自身をさらなる孤立に追いやるという視点には、非常にハッとさせられました。この方は市販の風邪薬なんかにもそういう可能性があることを危惧されており、そういった社会にならないよう啓発活動を行われてもいます。ただし、最近でも、そんな市販薬がコンビニでも買える法律ができたというニュースを目にするなど、世の中は逆の方向、すなわち、人々を孤独へと追いやる方向へと、社会も政府も動いているようです。なんとも、やるせないですね。

news.livedoor.com

(社会は、政府はどう責任をとるというんだ?ありえません。)

 

そして松本先生は、『精神看護』という看護雑誌の「市販薬オーバードーズ特集」にもすごく面白い寄稿をされています。興味がある方にはぜひ読んでいただきたいです。

www.igaku-shoin.co.jp

せっかく、本の紹介をしたので、こちらの本にあった倉田さんという方の寄稿で印象に残った部分を引用します。引用自体は、氏が運営している市販薬オーバードーズ患者の回復施設に、氏の友人の作家の赤坂さんが訪れた際に参加者の印象について発したコメントになります。

他人に迷惑をかけず、法律に触れることもなく、自分一人で自分の精神をコントロールしながらギリギリに生きていこうとする。それが、市販薬や処方薬のODをする人たちではないかと感じた。派手な症状はないのだけれど、一人で消えかかっているというような危うい印象を受ける。儚い存在感。派手な症状を出して目立つというところが無い。極力目立たないようにしているようでもある。危うさを感じる。症状を出すことで外とつながったりもしながら生き延びるということが少ない。これがもしかしたら生命リスクがいちばん高いことなのかもしれないと直感する。これは、よく見ると現代に推奨される個人を具現したような存在なのではないだろうか。なんでも一人でできること。だから誰からも発見されにくい。自分でも、おかしく思えるときと正常に思える時がないまぜなのではないか。逆にいうと、現代に推奨される個人を律儀にやったらこんなに壊れてしまうということでもあるように思える

 

この本では、市販薬オーバードーズという問題を一つの社会問題として捉えているのですが、現代の若い世代の人々の孤独という問題から分析したこのコメントはとても印象に残っています。

 

前提的な歴史的背景(日本に限って言えば、日本社会の大きな物語(終身雇用制や家族制度)の終焉)もありますが、ここまでをまとめると、現代は個(弧)の時代であること。そして、個(弧)の時代であるがゆえに、自分自身でそれを解決することが社会的に良しとされており、それに加えその解決する術がだれでもアクセスしやすいような形で市場に出回っていることが、孤独という問題を「自分自身で」「孤独に」解決するという図式を生んでいる。それこそが、ほかでもない人々の孤独を助長している、という風にとらえられますね。社会に求められるのは、間違いなく、「自分自身で」「孤独に」解決する方法を強化していくことでなく、人々が他者へ助けを求めやすくできるような場所であったり仕組み、もっというと空気を作り上げることです。新自由主義的な、自己肯定感なんて言葉がはやっているようじゃあダメなんです。

 

とはいえ、自分は今も、会社なんかで分からないことを聞くときに、こんなこと聞いていいのかなと思ったりして、周りの人に聞けないでいることがまだまだ多くあります。これは対人関係に関するものなのでまたちょっと違う話かもしれません。(それこそ、メンバーが回答してくれたようなことです。)ただし、ここまで書いたことを考えると、一人で抱え込まない方法ってのは見つけていく必要がありますね。これを書くことも、その方法のひとつかもしれません。

 

1年前くらいに送ったメールでしたが、こういう風に自分で書いたり考える材料になっていると思うと、なにかしら残る形にしておくのは大事なんだと思いました。

そういえば、このコーナーは送られてきた悩みに対してメンバーが解決策を考えてくれるという趣旨なのですが、自分の悩みに対して、自分は結構考え込まずに周りの人に自分が分からないこととかを気軽に聞けると言っていたメンバーがアドバイスとして、「何だかんだ結構みんな優しいから。世界は思ったより優しいから」と発言していたのですが、その子が「目にしたり耳にする言葉に触れて気持ちが沈むことが多くなり、前向きに活動することができなくなったから」という理由で、このカルテが届く直前に卒業してしまいました。これが届いた時は、なんというかちょっとだけ心が痛みましたね。

誰も傷つかない世界なんてのは無理なことだと思いますが、それにしても、少しでも良い世の中になってほしいものです。

 

最後に、このラジオのメインパーソナリティをしているメンバーが、自分がよく行く中華料理のお店にプライベートで来店してサインを残していたのですが、このラジオのノベルティでもらったステッカーをそのサインの周りに店員にバレないように貼ってやろうかというのを企んでいます。が、不審がられるのが勝つと思うので自粛します。さすがに。怖いので。

 

次回はアイドルオタクらしく、先日行った握手の接触レポでも書こうかと思います。この振れ幅が自分らしさです。

似島Distance④

タイトルと番号だけという分け方で投稿していますが、副題みたいなのも付けられるなら付けたいですね。今回で最後なんですが、この章に副題を付けるとするなら、I got the Blues. です。それではお読みください。

 

 

港に向かうバスに乗る前に、推しメンからこの日の参加者全員にお見送りとサイン入りのメッセージカードを渡してもらう時間がありました。時間を見つけて書いてくれていたんだなと思うと、本当にホスピタリティの溢れる人だなと感じました。推しメンのこういうところ、ただただ感心します。自分が受け取った一言メッセージには、「私としゃべって社会に慣れよう!」と書かれていました。スマホゲームやらない、性格診断やらないといった種々のトガりで、社会から孤立した人物というパーソナリティが出来上がったのだと思います。あながち間違ってはいません(泣)。お見送りの一幕を以下に書きます。

 

自分「社会に慣れよう笑」

推しメン「(笑)」

自分「確かに、ちゃんと偏見ある人間だからスマホゲーとかやらないし」

推しメン「(自分)の思想面白いよ。本とか書いたら?ツイートも。〇〇男性のブルースってツイート面白かった。」

自分「うん。哀愁あるからね。この年で。」

推しメン「失笑。いつか詩集書いて」

 

哀愁(=ブルース)というものに、具体的なイメージを持つようになったのは、芸人の永野がラジオで、本屋に行った際に高齢の男性が週刊誌を立ち読みしながら袋とじを破らないように覗いていたのを見たときブルースを感じた、という話を聴いてからでした。人の哀愁というか、ちょっと情けない感じとかって特有の味わいがあると思います。そこには心がグッと掴まれるような、心の奥底を震わせるようななにかがあると思っています。そこに気づくこと、目を向けることが大事です。哀愁やブルースの源泉は、人々の孤独、抑圧、哀しみと悲しみといった感情です。ブルースとは、そこから滲み出るものです。精神科医中井久夫先生のエッセイの中に、ユーモアの極致とは、「惨めさの中にある自分を距離を置いて眺めるということ」だ」という記述がありました。文脈的にここでのユーモアとはアルコール依存症者によく見られるブラックユーモアのことであり、あまり拡大解釈をするのも良くないかもしれませんが、先に挙げた「心が震えるような何か」の要因にこれがあるんじゃないかと思います。最近、一人であることを「ぼっち」や「陰キャ」というポップな言葉で称する人を多く見かけます。しかし、それはポップな言葉で孤独から目を背けているだけに思います。そういった孤独の先延ばしや、負の感情をうやむやにするのでなく、真に孤独と向き合った先にブルースがあると思います。孤独や疎外と向き合って、その乗り越え方を模索して、自分の支えとなるものを何とか見つけて、自立への道を描くこと。そこにこそ文学の美しさであったり、意味があると思います。自立しないための言い訳になってはいけません。あと、ブルースは単なる自虐ではありません。自虐と皮肉の絶妙なバランスによって成り立つものです。そこら辺は落語とか聞いてると、まさしくこれだなって思う時があります。

そういえば、思想が面白い、と言ってもらえたのはなんか嬉しかったですね。調子乗っちゃいそうです。詩集を書いてと言われたのは、以前にもありました。リミスタというアーティストのインターネットサイン会ができるサービスで、「(昭和歌謡テイストの)新曲をミラーボールがあるライブハウスで聴いたとき、昭和歌謡の世界観とその光景がマッチしていて趣を感じた。趣を大事にしている人間なので共有します。」と送ったら、ややウケの後、書くの上手だから詩集を書いてプレゼントしてと言われました。自分はハローのオタクだったので、向こうはもっと尖ってるというとアレですが、ウィットに富んでるオタクが多いので、リミスタとはメッセージで「自分を出す」場所という認識だったのですが、今の主現場はいわゆる「推しを応援する文化」一色だったので、自分だけ浮いてる感じでした。浮いてるのが恥ずかしいとかは一切ないんですが、なんというかちょっと寂しかったです。手紙とかでなく、「詩」なのは、ポエマーだと思われてるのかな、なんて思ったりしますが、まぁそこはいいです。あと、詩は書けません。

 

お見送りが終わり、バスに乗り、港に向かいます。港に着いたら、バスのまま船に乗りました。この状況で乗り物酔いしたらバス酔いになるのか船酔いになるのかなんて思いましたが、そこは乗り物酔いでいいんじゃないかと結論付けました。スマホの充電が無くなりそうだったので(理由は一章を見てください)、船内の充電スペースのある場所に行きます。席でなく、靴を脱ぐタイプの小上がりのようなスペースだったのですが、そこにいたのは自分とベトナム人労働コミュニティの方々のみでした。自分が履いていた靴と同じものを履いていた方が二人くらいいたので、バスに戻るために靴を履くとき、同じだねみたいなアイコンタクトを送ったら、一人は微笑んでくれましたが、他は、なんだこの日本人みたいな目で見られました。誰が悪いとかの話ではないと思いますが、自分が悪かったのかもしれません。

 

 

港に戻ったら解散式的なものをして、解散となります。ほぼ一日くらいの日程のプログラムでしたが、とても楽しかったです。参加者としてはやはり、客目線で何か言いたくなるものです。それは、お金を払う払われるという関係である以上、仕方ないことだと思います。お金が絡むと双方が「ちゃんと」を意識してしまいます。そういうのがあるからギスギスしてしまうんです。この辺は、坂口恭平さんが『躁鬱大学』という著書で言っていました。でも、この日はそういうのを超越した満足感というか充足感がありました。好きなアーティストのライブを見た後とか、面白い映画を見た後とかに感じる、「良いもの見たな」という充足感です。そういうのがあると、なんか明日からもがんばろうってなれますよね。そういう体験って、多くはないんですが、たまにでもあると本当に人生が豊かになりますよね。ちなみに、自分は中学生くらいからの10年来の相撲ファンだったのですが、昨年、たまたま大相撲の巡業があることを知り、念願かなって生で観戦できるという機会がありました。相撲というものに関しては、その競技性ばかりに注目してみていましたが、国技としての伝統であったり歴史について知る機会になったり、巡業ということで公式戦でないためガチンコ勝負という感じではなかったのですが、それでも客を湧かせる試合にしていて、そういう部分でエンターテイメントとしての本質の部分を感じ取れたりと、先に挙げたような「良いもの見たな」という気持ちになれたのが記憶に新しいです。しかし、その翌日、買い物帰りに家までの通り道だったので繁華街を通って帰っていたら、力士二人組がソー〇ランドに入っていくのを目にしてしまい、以降は相撲に一切興味を失ってしまいました。これもブルースなんですかね......

これで終わるのは少し嫌な感じもありますが、似島Distanceはこれにて完結です。全部読んでいただいた方は、お時間いただいてどうもありがとうございました。

 

youtu.be

 

 

追記:公式のイベントレポートがあるので貼っておきます。

anyland.jp

似島Distance③

バウムクーヘン作る編です。バウム食う編もありますので楽しみにしていてください。

 

この日の別の時間に推しメンから、「説明書好きでしょ?」と聞かれて、さすがに適当に喋りすぎだろとなっていたんですが、実際に作る場面になったときにずっと説明書を見ていて、自分って説明書好きだったんだな、となりました。(なってないです)

想像通りの材料と想像通りの製法でしたが、実際にやってみるということに意味があるんだと思います。前章で書いた「安心感」の獲得ですね。まぁ、バウムクーヘンに不信感を抱いたことは一度もないのですが。一応、施設の方が作り方について一通り説明してくれました。その際に、以前ドイツ人の学生団体でこのプログラムをやった際に、バウムクーヘンを初めて見たと言われたと笑いながら言っていました。そんなもんなんでしょう。作り方としては、基本、材料を混ぜるだけなので特に言及することはないですが、強いて何か挙げるならメレンゲつくりの部分でしょう。私たちのグループにめちゃくちゃそれがうまい人がいて、そのおかげかすごいふわふわの生地になっていました。

写真のように、生地を塗っては焼き、塗っては焼きの工程を、生地がなくなるまでやり続けます。最初はこの工程を20回ほど繰り返す、2~3時間はかかるといった話を聞かされ、外気と炭火で二重に暑いのもあり、正直だるいなと思っていましたが、やってて思いのほか楽しくて、あっという間な感じでした。焼いてる途中、これは護摩行のようだ、と言ったら、スタッフの男性と自分のグループの人たちにそこそこウケました。護摩行と調べると、真っ先に某野球選手が出てくるので、ここが広島だから説明いらずで伝わったのかななんて思ったりしていました。自分はちゃんと効率化を求める人間なので、こういう風な角度で焼いたらいい、とグループの人たちに指示していたら、推しメンから「(お前は)理系か?」と言われました。文系なので、「文系です。でも大卒(嫌な響き)」と答えました。

焼き上がりです。ゆら帝のアルバムのジャケットを思い出しました。

youtu.be

この段階では、手作りだしまぁこんなもんかなという感想でしたが、切り分けたらめちゃくちゃきれいでなんかすごいテンション上がりました。

正直、作り始めの最初のほうは、手作りなんだから多少凸凹してたり不格好なほうが味があって良いよねなんて思っていましたが、いざ出来上がりを見たら、自分たちが作ったものがとても綺麗で、普通に綺麗なやつのほうがぜんぜん良いな、という元も子もない感想になりました。「ゴッホよりふつうにラッセンが好き」に通じる話ですね。もちろん、みんながいる前ではこんなことは言いませんでした。味はと言うと、想像通りというとあれですが、なんというか、想像を裏切らない味でした。ただ、出来立て特有のほんのりあったかい感じだったり、端の部分がアメリカンドッグの棒付近のようなサクサクしていて、手作りならではだなと感じました。あと、写真の一切れだけでも、腹パンパンになりました。これだけでカロリーメイト一箱分くらいあるんじゃないかとすら思うくらいのボリュームです。だれも二個目に手をつけませんでした。

 

そんな感じで、バウムクーヘン作りのプログラムは終了し、帰りのバスに乗ります。

④へ続く。

 

似島Distance②

国語の授業で、論説文には序論・本論・結論という文章の構成があると教えられました。当時は単なる受験テクニック程度に捉えていたのですが、もっと普遍的な読みやすさであったり、美しい文章の構成なんだなと感じるようになりました。日本人が好む七五調であったり、ああいうタイプの美しさです。あと、大学生くらいになって本をよく読むようになったり、レポートなどで文章を書く機会が増えると、この構成は見る側というより、書く側が意識すべき構成なんだなと思うようになりました。論文なんかがまさしくそうですからね。今回はそれで言うと本論にあたります。では始めます。

 

本当にこの場所であってるんだろうかという一抹の不安を抱きながら集合場所で待機していましたが、集合時間になると、誰もが一目でわかるように受付列が形成されていました。アイドル現場あるあるなのですが、オタクっぽい人というのは雰囲気で分かるので、見知らぬ土地の会場でも、なんとなくそれっぽい人たちに着いて行くと会場に着くことができる、というのがあります。自分もよくこのあるあるに頼ってマップを見ずに歩くことがあるのですが、一度、これで、ボートレースの場外舟券場に着いたことがあります。受付が終わると、紙に割り振られた番号とニックネームを書いて、それをパスケースに入れて首からさげるようにと言われます。写真を撮り忘れましたが、そういうのを首にかけると、なんだかそういう婚活パーティーみたいだなと思いました。行ったたことが無いので想像ですが。今回の目的地である瀬戸内にある似島へ向かうため、フェリーに乗船します。


自分は船酔いする人間なので、暗い顔で遠くの景色を眺めていました。途中、メンバーを撮影する時間がありましたが、それを終えたら、目的地に着くまでまた暗い顔で遠くの景色を眺めていました。途中、一般の乗客のあばあさんが「今日はアイドルの子が乗ってるらしい。スターだよ。」と会話していて、「お金 稼ぐ 私はスター」だ、となりました。(本当にお金を稼いでるかは分かりませんが、稼いでいてほしいです。)

20分くらいで着きました。すぐバスに乗って施設に向かいます。

港から近くの施設なのでバスにもちょっと乗っただけで着いたように思います。

はじめに「散歩をするよ」と言われたので、目的地も分からない中、みんなで外を歩きます。ちなみに、外は25℃前後あったように思います。夏でした。どこを目指しているか分からない中、歩いては引き返すというのを2ルートくらいやった後に、急に下の写真のような急な階段を前に、今からここを登ると言われ、ロケハンはしたのか?となりました。

で、階段を登ったら展望台があって、そこで撮影タイムが行われました。それが終わり、広場のようなところへ戻ると、スタッフの男性が「これからアクティビティをしてもらいます。」と言い出しました。そして、モルックをやることになりました。あまりにも唐突です。悪い意味ではないですよ。こういう唐突さや、訳の分からなさをただ従ったり、ただ批判するのでなく、なんだこれは?という気持ちを抱きながら過ごしてそれを愛でるみたいな気持ちが、今の自分にとっては一番楽しめます。まぁやった後も訳の分からなさは残ったままですが。

さて、ざっくりとした説明の後、それが始まります。自分は二回投げて2本倒しました(ボールでなく棒状の木でやるボウリングとイメージしてください)。ただ、それがチーム戦なのか個人戦なのかも誰一人としてよく分からないまま進んでいきます。チーム戦の線も未だあったので、一応チームメイトの結果も見ていたのですが、自分たちのグループは結構散々な結果でした。途中、チームメイトの一人が、俺たちのレーンはデコボコがあるからフェアじゃない、とアジアカップ宮本恒靖みたいなこと(※)を言い始めたのが印象的でした。結局チーム戦じゃなく個人戦だったようで、成績上位者が決勝戦を始めていたのを、何が起きてるのかよく分かってないまま、遠くの日陰で眺めていました。推しメンが近くに来て、「向こうはもう何やってるか分からないよね〜。」と話しかけてくれたので、「いや、最初から最後まで何も分からなかったよ。」と答えました。念のため言っておきますが文句でも何でもないですからね。そういえば、近くにいたオタクがレースクイーンみたいな日傘をさしていたのも印象的でした。(どうしても言いたかった)

 

その後、昼食まで自由時間となります。知らない街を徘徊するのが好きなので、ここぞとばかりに徘徊していました。

ところどころに戦争の跡があり、じっくり見ることができました。

瀬戸内の海は本当にいいですね。海の向こうに島がある、というのが瀬戸内の景色の醍醐味です。海の近くに住んでみたいというひそかな願望があるので、こういう暮らしに少しあこがれがあります。

 

昼食の前に時間潰しで、公式のゲームアプリをみんなでやろうという話になったのですが、オタク40人くらいいて自分だけそのアプリをやっていませんでした。推しメンに「なんで?」と聞かれたので、「スマホゲームが好きじゃないので……」と答えました。スマホゲームに関しては、自分がやるのはなんか違うなと思ってしまい、かれこれ5年くらいやっていません。推しメンには前の週の性格診断やってないというやつとのダブルパンチでトガってる人認定されました。

 

昼食はビュッフェ形式でした。自分は偏食気味なので、下記のようなチョイスです。日本人なので、ポテトでご飯を食べました。(なんのおかずでもごはんを食べられるという部分に日本人としてのアイデンティティを置いている人間)

最近、『自分のために料理を作る: 自炊からはじまる「ケア」の話』という本を読みました。誰もが抱いたことのある「やりたいのにやれない」という自炊に関する悩みを、ケアの視点から考えていくという本で、自炊とケアを双方から考えることができて、非常に面白かったです。この本の著者の方が、自炊レッスンという、参加者の方にワークショップみたいな形で料理を教えながらカウンセリングのように自炊のアドバイスをするという活動をされていて、同書でも、その自炊レッスンの様子をテキストベースで記載しています。その中で出てきた「美味しさの9割は安心感」という言葉がとても印象的でした。調理の過程が確認できたり、調味料が味にどう作用しているかを自炊によって知ることができ、その安心を獲得できるよねといった文脈で出てきた言葉でしたが、偏食気味な自分にとっては、その偏食の原因の一つにこの「安心感」があるなと感じました。自分にとって食べられるものと食べられないものの基準というのが、年を重ねるごとにだんだん明確化してきているのですが、一番はっきりと出るのが和食です。そして、それは具材とかの部分でなく、味付けの部分に出ます。自分の思ってる味じゃないと食べてて、無理~となります。この「自分の思ってる味」というのが安心感に結びついてる部分だなと感じています。家庭によって味のばらつきがある和食は特にそれを感じて、仕出し弁当みたいなのに関しては食べれるものがないという状況になります。栄養が偏ってるような場合の偏食は改善が必要かもしれませんが、ちゃんと栄養を考えられる人間なので、自分にはそういう特性があるんだなくらいにしておこうと思います。

そういえば、推しメンに日本人だからポテトでご飯を食べたといったらトガってると言われました。

 

ちょうどこれで午前のプログラムの内容が終わったのでキリが良いのでこの章はここで終えます。次がこのイベントのメインであるバウムクーヘン作り編です。(へんが二回出てきてややこしい)

 

※サッカーアジアカップ2004年 準々決勝ヨルダン戦にて延長でも決着がつかずPK戦に突入するも、日本代表は2人連続でPKを失敗し窮地を迎える。当時唯一英語を話せたキャプテンの宮本が主審に芝の状態の悪さを指摘し、PKのサイドの変更を求める。主審の熟考の末、その要求が認められサイドが変更されると、GK川口の活躍もあり、PK戦に勝利。その勢いのまま日本代表は同大会で優勝した。

詳しくは下記の記事を参照

sportiva.shueisha.co.jp

似島Distance①

自分は流行りものに抵抗感がある卑屈な人間なんですが、やっぱり人の推し活って、見てて面白いものですよね。でも、見てて面白いと思う推し活とそうでない推し活があります。そもそも論として、個人の趣味なので本人が楽しければそれでいいと思うし、他人が見て面白いと思うかどうかなんて意識する必要はないと思います。でも、やっぱり、人に面白いって思われたいんですね。特に、自分が面白いと思ってる人たちには。

自分がTwitterで面白いと思ってる人たちとは主現場が同じではないので、特定のグループとそのオタク(自分)という図式の推し活は、そのグループのことを良く知らない人たちにとっては見ていても別に面白くないですね。面白いにいくまでのハードルというか、必要な前提知識などいくつかの段階が必要だからです。アイドルって結構内輪の文化だと思うので。でも、自分には、そこを知ってもらおうとか、いわゆる「布教」をしたい、とかの熱量はありません。かといって、その内側の人たちと楽しさを共有しようみたいな気も(今のところは)ありません。なんというか、推しを応援する文化が前提になってるかどうかの違いというか。いや、どんなオタクだって推しを応援してるだろというツッコミもあるかもしれませんが、自分からすると違います。この推しを応援する文化というのは別にいいんですが、それがあまりにも定着していることが非常に厄介です。個人的に、ただ単に「好きだから」という理由でアイドルのステージを観に行く人が少数派になっていると感じます。変だと思いますね。あと、ああいう人の楽しみ方だったり応援の仕方が画一化されることや、それが産業に組み込まれてしまうことは近年の推し活の弊害であると思います。人文学的に批判することもできますが、自分はもっとラディカルに肌感覚でそれに面白さを感じないから一歩引いてるような形です。これ以上話すと脱線しすぎるのでこのあたりにしておきます。

話を戻すと、自分の趣味をこういった形で発信するというか、人に見てもらうようなかたちで記録的に残そうとするとき、特定のグループとそのオタクという図式では面白さが伝わらなくても、一つ大きくみた分類のアイドルとオタクという構造であれば伝わる気がします。こうやって言うと構造主義っぽいですね。(まぁカッコだけで、知ってる言葉を言っているだけなんですが。)ただ、それだと、そのアイドルの部分に対するリスペクトというか重要度が一段階下がるわけですね。誰でもいいんじゃないか、みたいな。その辺は自分が批判的に見ている流行りものとしての推し活(推す対象はバラエティに富むようになったが、推し方(応援の仕方)はどれも同じ)とちょっと近しいものになるような気もします。かといって特定の個人を応援するというベクトルの部分を強めると面白くなくなると思います。ここに難しさがありますね。

とりあえず今回は、先日イベントに参加した記録を、自分で撮った写真を交えながら、アイドルとオタクという構造でダラダラと綴っていきます。

 

前日談から始めます。これから知らねぇ奴の話を読むというのに、知らねぇやつの「エピソードゼロ」から聞かされんのかよという話ですが、どうかご了承ください。

イベントは土曜日にあったのですが、朝の集合時間が速かったので前日のうちにコンビニで朝ご飯を買っておこうと思い、最寄りのコンビニに向かったのですが、入店した瞬間に野生のメンバーを発見し、入店時のチャイムが鳴り止まないうちに退店しました。ここ最近になって思うのですが、外を歩いてるときとかになんか見たことあるなという人がだいたいメンバーかそこのスタッフかおまいつオタクなので、一人暮らしを始めたこの2年くらいで自分が本当にアイドルオタクしかしてこなかったんだなというのを実感してしみじみとなります。(アイドルオタクのブルース)

そういうわけで、翌日の朝は早めに起きてコンビニで朝ご飯を買って、集合場所に向かいました。

この日はほぼ一日くらいのスケジュールのイベントだったのですが、スマホの充電が無くなならいように、行きの電車~集合時間まではスマホは触らず、前日に買った本を読むことにしました。(モバイルバッテリーで火事になったというニュースを見て本気で怖いと思っている人間なのでモバイルバッテリーは持っていません)

写真の通り、『性格診断ブームを問う』という本です。昨今流行っている性格診断(と呼ばれているもの)について、ブームになっている性格診断の概要、それがなぜ流行っているのか、そしてその問題点について非常に簡潔な形で書かれた本でした。ブックレットだったので行きの電車と港に着いてからの時間で読み終えました。なんでこの本を手に取ったかというと、もともとネットで発見した際に読みたい本リストに入れていたというのもあったのですが、この日の前の週に行ったイベントで、推しメンから自分の性格診断の結果はなにか?と聞かれたからという経緯がありました。冒頭に挙げた通り、流行りものに乗っからない卑屈な人間なので、このような性格診断は一切やったことがありません。なので、「やったことはない」と答えました。せめてあの時、自分は何っぽいのかくらい聞いておけばよかったなと思います。話を戻して、自分は臨床心理学の本をここ何年かでよく読んでいるので、こういったいわゆるポピュラーサイコロジーみたいなものが全く好きではなく、忌避しています。でも、それはそれで別の偏見があるかもしれません。とはいえ、そういった偏見には注意をしたうえで、この本を読んで改めて自分は性格診断をやらなくていいなと思いました。

あとは、個人的に、こういったネット上でポチポチできちゃうネット診断で、自分の性格や何かしらのラベリングをする、もしくはされるという行為には別の問題もあると思います。それは、そういった枠組みが、「人間の複雑さ」やその枠組みだけでは「説明できないこと」を切り捨ててしまうという点です。『あらゆることは今起こる』という発達障害当事者による当事者研究の本を読んだ際に、ADHDという症例側に自分を当てはめている人をよく見るけど、その当事者としてはむしろそれだけでは説明できないことのほうが多くて、そういうのを「自分の」言葉で語っていくことが、発達障害ライフハックみたいなものよりも、自分を幸せにしていくんだろうなということを感じました。自分は、そういう一言に集約できない「人間の複雑さ」を自分で語っていくことが自己理解の手引きだと本気で思っています。そして、今自分がやるべきことはそれしかないとも思っています。性格診断は良くも悪くも流行りものでしかないと思っているのでそこに対してはこれ以上何も考えなくていいかなと思いますし、自分のやるべきことをやって行こうと思いますね。

①はここまでです。エピソードゼロだけで終わりましたね。リアル世界で言うと、エピソードゼロから始まる人の話が一番ダルイですよね。ですので、これは何もやることが無いときとか、読みたいときに読んでください。