22/05/08(日)~14(土)

22/05/09

・「自己とは常に自己を欺くもの」「決して自分自身を頼みとしてはならない」「自己に対しては絶えず根本的不信を抱かねばならない」
→「自己に関する絶えざる検討と告白とが必要とされる」
 
社会的に良いと自分にとって良いは=とは限らない。自分にとって良いを見つけることのほうが圧倒的に重要。社会的にとっていいこととはその環境、社会構造の中での良いことにすぎない。自らの自由のための生存の美学。社会的に良いことの先には何があるか、その社会構造の中でしか使えない知識を追い続けるとどうなるか。ここ最近、私はいつまでその環境でしか使えない知識をインプットしなければならないのだろうと考えていた。社会に出ること(一般的な会社員になること)はまさにそのような知識を得ては環境を変えて無駄にする、つまり、その知識は自分にとっての経験値ではなくなるような生き方をすることにほかならない。
話はそれるが、漫画「あたしンち」に使い込んでボロくなってきたドリップコーヒーメーカーを買い換えようと思うが、欠けてる部分からコーヒーカップに入ってるコーヒーの容量を確認できたりとなにかと便利、というよりそれに慣れてしまってるが故なかなか買い換えるという行動に踏み切れない、といった話があった気がする。
新しいドリップコーヒーメーカーを買うことは自分にとって良いことか、見た目はボロいがまだ使えて、なおかつ使い慣れてるコーヒーメーカーを使い続けるほうが良いことなのか。それは自分に聞かなければ分からない。新しいドリップコーヒーメーカーを買うのは自分のためなのか、それとも社会規範的なことなのか。自分のためだったらそうやって悩むこともまた人生と言いますか、人間らしいなと感じる。
 
今のバイトに対する考え
今も続いてるのは間違いなく人が良いから
でも最近は金のことばっかになってると感じる
今日はめちゃくちゃ雑談したしそんときは結構楽しかった。バイトしてるってのを忘れるくらいに。もう一個の方のバイトもどちらかというと楽しい部分があるからやれてる。そっちは金稼ぐ目的で入った訳でもないしそういう気持ち忘れないでいこう。むしろ金を稼ぐだけってことに焦点を絞ればバイトなんてやってないかもしれない。
 
22/05/10
私にとって株や投資はまだ1が10になるかもしれないものと言う認識でしかなく、それはギャンブルに対する認識と同じである。名前が変わっただけのギャンブルといった認識のままではなかなかやろうとは思わない。根本的な理解が出来ていないのだろう。そこが変われば、すなわちギャンブルとは異なる部分(再現性のような)を勉強によって見いだせば手を出せるのかもしれない。
 
自分が何かやらなきゃいけない予定がある日にそわそわしてしまうこと、そして何かいつもと違うことをしようとする(例えばあと一時間で始まるからそれまでに今まで先延ばしにしていたことを一気に終わそうとする、しかし、終わるわけがない)のを辞めるためには、いつも同じことをすればよいのではないかと考える。
1つのメソッドとして、今日やったことは明日もやる、というのを試してみてはどうか。やる、やらないの二択のみというのは2進数的な考え方であり、機械的でもっとやり方があるのではないかとも思うが、生活におけるオートメーションは必要であり、第一にやるべきことが明確化されてるとかなり楽になる。そしてなりよりそれが自分にとって良いことなのではないか、という点が推奨できるポイントだ。
↑あと人間は習慣化する生き物だみたいな話あったかも
 
今の自分を構成するカフェに滞在し読書、映画鑑賞、勉強というコアタイムに加え、家でのハロプロ動画を見る(いわゆるヲタ活)、懸垂に関しては毎日続けていい。今自分がなんとなくだけどできることを核にしてそこから触手を広げていけばいい。
 
もちろんできない日もある。そういう日こそ自分でなんとかしたり諌めること、つまり、反省すれば良いだけ。次の日に活かす。そのために毎日の活動の記録付けが必要に感じる。平常心でいること、毎日同じ生活をしていくことは自分を落ち着けてくれる。
 
22/05/11
アトロク 西寺郷太 マドンナ パート1
80年代から90年代へ
ファンタジーからリアルへ ポップからヒップホップへ
マドンナの生き様めちゃくちゃカッコいい
岸本ゆめのちゃんのいつかのインスタでの質問に対する返答
Q.「強くなるには?」→A.「強がるしかない」
そしてそれを地で行くマドンナさんよ
 
・自己を気遣うべしというより根本的な原則
 
初めての哲学的思考
・自分が自分に課す生き方は他人にも進められるくらいのものでなければならない
 
・「配慮するとはどういうことか、………そこから最終的に、自己への配慮は、魂としての自己の本性そのものを知ることに帰着させられる」
「それは、プラトン哲学においては、魂がかつてすでに知っていたことを思い出すことである。」
魂が神的なものと関わっていたときはあったが、現実世界で身体と結びつくことで忘れられてしまった心理を記憶の底から呼び起こす。
 
22/05/13
GD突破。素直に嬉しい。でもここで成功したことに何ら意味はない。あるのは成功したという事実と三週間後に行われる集団面接のあんないメールだけだ。この一週間でエントリーした企業があったが説明会が録画配信で好きな時間に見れるパターンだったので先延ばしにしていたら一定期間内にある程度の時間視聴しないと次に進めないシステムだったらしく、あとはお察し。やっぱ先延ばしに出来るからと言って本当に先延ばしにするとこうなるというか。2020年度から始まったオンライン授業も大方このような一定期間の猶予内に課題やれというシステムだったが、二年のときはほぼ完ぺきにやってて三年の後半くらいからはわりと今回みたいに先延ばしして飛ばすことが何度かあった。違いはやはり習慣化できているかどうか、日常に組み込まれているかどうかだ。去年何度かライブのために遠征をしたが、その結果日常と非日常が分からなくなった。ライブを自分のミスの原因にするのは確実に間違っている。ミスの原因は自分にある。非日常は非日常で良い。去年しきりに地に足を付けていかなければならないと感じていたが、具体的な行動には全くつながっていなかった。解決するわけがない。今なんとなく気分がいいのも調子がいいのもこの構造に気づいて解決できるような行動をとっているからだろう。
 
22/05/14
地に足をつけて生活できているからだろうか。アンジュルムのコンサートは非日常という感覚があまりなく、それでいてリラックスして楽しめた。やはり焦りというのは自分自身から発せられるものなんだろうな。でも今はその焦りという文字のあも出てこないくらい落ち着けている。ライブを非日常だと捉えていた時期はかなり操状態になることが多かった。もちろんその分鬱もやってくる。そういう状況から脱せられたかなと感じる。自分には継続しかない。自分に出来ることからとにかくアクションを起こし何か始めろ。まぁ今はそれを出来ている。だからかなり落ち着いている。日常と非日常という対立構造で捉えないようになったのかもしれない。結局は私の日々であり人生であるのだから日常も非日常もない。私は自分の生活を送るに過ぎない。今は明日も頑張ろうとかではなく、毎日を淡々と、それでいて充実して送れてる。そしてときどき反省して自分の生活をより良くしていく、そういう活力がある。というより、それが普通になってる。焦りも不安もない。あるのは充実感と自分に対する信頼感、そして自分で自分をコントロールする(それが出来るんだという自信)心だ。
非日常はいつもと違うと思いがちだが、それを過ごす自分はいつもと何ら変わりはない。それを勝手に自分自身すら変わってる、いつもと違うと思い込むことで日常と非日常という対立が起こるのではないか。
 
ライブ開演までのタイムマネジメントで暇を潰すという言葉が頭に浮かんだ瞬間にやはり何をしても満たされなくなる。そこで自分がどツボにハマりかけてるな(暇と退屈の倫理学が浮かんだ)と感じ、自分のその場の感性に任せて何となく店に入ったり、今回なら野中神社に参拝するとかいい感じに時間を使えた。これは忘れちゃならない。
 
何かするにあたりロールモデルがいるとかなり楽だ。食事に関しては玉袋筋太郎さんに影響を受けている。彼がマックのドライブスルーでフィレオフィッシュを旨辛にしてくれとお願いしたがそれはできないと断られたという一幕は私の行動にポジティブな効果を与えてくれている。かなり気が楽になった。最近人に何か言われてもあまり考え込まないようになった。こんくらいの気持ちでいい。