22/04/24(日)~30(土)

4月20日から現在進行形で筋トレというか運動をやっている。ここ最近肉離れを起こしたが、それまでは肺活量と心肺機能の強化を目的にインターバルランニング、全身運動として懸垂という2種目を主にやっていて、今は懸垂をメインに鉄棒で上半身の運動を行っている。私の目標はビルダーのようなボディーではなく、体操選手のようなボディーだ。自分の体を自分で支える。これは思ってる何倍も難しい。格闘技経験のある私でも体操選手のやってることはかなりすごいと感じる。もちろん種目ごとの特性の違いがあるがトレーニングの動画などを見ているととても憧れる。しかし、残念なことに世の中には吊り輪やマットが敷かれた広い空間、あん馬はまぁ置いてないわけで。最低限それに近いもので、一応高校のとき得意だった懸垂を公園の鉄棒(それも子供用でかなり低い)でやっている。低いことにもメリットがあり、それは自然と足を前に出さざるを得なくなり、いわゆるL字懸垂という体幹や腹筋も同時に鍛えられる種目をできるようになる。多分みんながよく想像する腹筋運動の何倍も効く。と、そんな具合で筋トレというか懸垂をやっているのだが、これにはもう一つ理由があり、それはメニューを考えるのがめんどくさい、というかもっと広く言えば、なんとなくこうなりたいってのはあるけどその過程を考えるのがめんどくさくなっちゃうという理由だ。例えば私はお金持ちになりたいと考えているが、そのためにはどうするかという具体策を考えるようなことはせず、結局働くことでお金を得るという結論を出す。実際は安易な発想だが株であったりいろいろな方法がある。しかし、結局やらない。他にも、携帯電話を機種変更しようと思った際、大手キャリアで契約するよりも格安シムであったりを契約したほうが得だってのはなんとなくわかる。でも、めんどくさいから結局モヤモヤした気持ちを残しつつ大手キャリアで機種変更を行う。なぜなのか。ここには、めんどくささについてフォーカスすべきではないかと感じる。

ここ最近(このテーマの期間とは異なる)自分について考えるが、自分は、現在なんとなくできることの積み重ねで生きているんだなと感じる。フーコーの考古学的な視点で自分史を考えたときだ。なんとなくできるようになったのは偶然の重なりであり、現在のわたしからしてみればなんとなくできることでしかない。成功に固執せず、今の自分にできることを起点として日々を送っていく。そして、私のような人間が何かしらの結果を出すには習慣化しかないと思う。フィリップ・トルシエ監督が言うようなオートメーションを生活に導入する。とりあえずやってみる。

 

そんな感じで今考えていることの軌跡を示しつつ4/24(日)~30(土)の日記をコピペしていく。ここに出てくるのはほとんどが千葉雅也氏の現代思想入門をよんで考えたことであるので説明が抜けている部分はだいたいその本のことだと思って読んでいただきたい。

 

22/04/24

寝れたかどうかに限らず自分が満足だった1日を送れたかどうかが次の日のコンディションに関わっている気がする。
エリック・ホッファー『波止場日記』
p55 l10 『まだ疲れている。そして、疲労は休息では消えないことに気づく。』
 
昨日カフェに行こうとした際に「カフェに長時間居座るのは店員からしたら迷惑なんじゃないか」ということが一瞬よぎり、カフェに行くのを躊躇しかけた。だが、そこで、自分の行動に他者性が帯びていることに気づき、「誰のためじゃない 自分のためだろう」というモーニング娘。'21の歌詞を思い出したことでカフェに行くことができ、結果的に一時間ほど滞在し読書をしたりすることで満足した日が送れた。
この出来事はしばらく忘れないようにしたい。
 
先週はこれまでにないほど活動的な日々を送れていたと感じる。ただ、何かに追われている(と感じている)状況下ではやはりそれに耐えうることができずにいる。他人のために、もしくは環境のノリに合わせるための行動はやる気もでないし終わりがないようにも感じる。そこから得られる満足なんてあるのか。結局、満ち足りる感覚は自分自身にしか分からず、そういった意味で自分が満足するために、自己目的的に生きることの重要性を感じる。
 
自分のために生きることを追求するのは他人のことを考えない迷惑なやつになることでもあるかと考えた。しかし、そういう考えをしてしまう時点で規律だとか社会というものに毒されているなと感じた。自分のために生きるというのは自分の信念のもと生きるわけで、何が良い悪いってのも自分で決めりゃいいだけ。千葉雅也氏が言うような世俗的な自由を追い求めていきたいと感じた。
 
フーコーの本も読んでみたい。
 
四章
・近代≒資本主義において、仕事のために自己啓発本を読んだり勉強する、いわゆる意識高い系の行動は、搾取されていても快適であるために、みずから進んで工夫をしているのではないか
下部構造の問題から目を背けている。資本主義の罠
 
・「本当に意識を高く持つというのは、搾取されている自分自身の力をより自律的に用いることができないかを考える
 
・無意識的に形成された自分本来の力、上部構造や社会性、世間体、意識高い系における『意識』などの抑圧や先入観がないなかでの自分本来の力を以下に取り戻すか。そしてその力によってどうやって搾取構造ては異なる独自の秩序を与えるか。
自己への秩序付け=「自己への配慮」
 
・偶然性に目を向ける。今の自分の必然性を疑う。→成功には偶然がありうるが失敗には偶然はない!!
自分自身へと帰る。そこから自分には何ができるのかを考える。
「努力は決して平等な競争ではなく、努力次第であらゆる初期条件をリセットできるわけではない」
ネガティブ(=社会的な良さとの対比としての)な特徴による表現
そのためには、自分が今なぜこのような人間かを精神分析的(幼少期の親との関係から考えるのではなく、自己を形作った偶然的な出来事たちを包括的に考える)に追求し、偶然の出会いへと遡る。
 
・「同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見する

 

22/04/25

気まぐれでドライブ・マイ・カー鑑賞
先がどうなるか分からなくとも前向きに生きていくことが生きとし生けるものの使命。ここらへんはネガティブケイパビリティがすぐ浮かんだ。
物語の繋がり方がスムーズで素晴らしい。
 
ミシェル・フーコーの入門書購入。明日読む。
 
フードコートにて岸本ゆめのちゃんが飲んでたマックフィズを飲みながらmid90's鑑賞。めちゃくちゃサイコーな映画。スケーターファッションとadidasのスーパースターカッコいい。何かに憧れて傾倒すること、何より自分のために生きることについて考えた。あと先のこと見据えて生きている人とそうでない人の対比が見られた。映像を撮ることというか作品を作る(出す)こともやってみたい。
イオンのフードコートわりと居心地がいい。今後もやっていきたい。
 
22/04/26
べんしょうほう
弁証法
 
物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。図式的に表せば、定立(「正」「自」とも言う)Aに対しその(自己)否定たる反立(「反」「アンチテーゼ」とも言う)非Aが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合(「合」「ジンテーゼ」とも言う)に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」(「止揚」「揚棄」と訳す)と言う。
(Wikipediaより)
 
「正」
・病とは身体の表層で観測される症状の集合。だから医学の任務は表層に起こる現象を観察すること。
・当時の死の概念は、生と病に絶対的な終わりをもたらし、病と同じ現象で身体を破壊するものとみなされていた。
 
「反」
・身体の表層で観察されるのは病ではなく、身体の深みにおいて起こった出来事に起因する現象
 
 
 
・ネガティブなもの(死)とポジティブなもの(病)の関係性、深層(ネガティブ)なものは表層(ポジティブ)にあるものの真理だという垂直的な関連性の思考について疑いを付し、そこからスタートする
 
 
 
結局何かあればそわそわしちゃうというか自分のために行動することができてない
というか他者、環境がなければそもそも行動しない?
とにかく気分はあまり良くない
 
↑解決
やはり自分の機嫌は自分で取らなければいけない
↑のように思ったのはまぎれもなく行動が誰かのためになっていたからだ。
時間をつぶすという行為は自分のための行動ではない。自分がしたいから出かけて本を読んでたのに後のことに気を取られ自分のための行動でなくなってしまった。このときになにかから逃れるためにする行動は須らく自分を満足させるものでない(暇と退屈の倫理学における「消費」)。
早い段階で自分を諌めなければならなかった
以前あげた自分が負のサイクルに入らないための思考図を意識する必要がある。
特に学校、バイトがある日は絶対
 
イヤホンでノイキャンにするだけで簡単に自分の世界に入れる。視界を遮るのもいいがそうするより目の前のことに集中するほうがいいかも。
 
暇と退屈の倫理学もっかい読みたい
 
22/04/27
二項対立的に考えないためには弁証法のアプローチは結構使えると思った。
 
現代思想入門第五章 ラカン
・「精神分析の言うことをすべて真に受ける必要があるとは思いません。」
 
・「一九世紀において、表面の秩序の下に隠されている力の次元が発見され、 二〇世紀になってそういう脱秩序的なもののクリエイティビティが言われるようになった。表面の秩序というのは二項対立的な組み立てです。」
・『人間は過剰な動物だ』、「人間はエネルギー(認知エネルギー)を余している」
 
・「本能とは『第一の自然』であり、動物においてそれはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを『第二の自然』であるところの制度によって変形する」
例)本能的な栄養摂取である食事(第一の自然)に対しての料理という「制度」(第二の自然)
他にも自分が名前で呼ばれること、周りの物の名前を教えられることも制度
 
・「そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程なのです。」
 
・自由に流動する認知エネルギーのことを欲動とする。人間は哺乳類としての本能的次元を欲動という流動的なかたちに変換し、発動している
例)本能的に同性愛があったとしても、欲動によって発現する人としない人がいる
 
・人間がやっていることは本能的ではなく欲動の可塑性を持っている。我々が正常と思っているものも欲動の可塑性から正常という逸脱であり、その点で、正常と異常という二項対立の構造が破壊される。→弁証法のアプローチ
 
ラカンの発達論……人間がいかに限定され、つまり、「有限化」されるか
 
・幼少期、安心安全な母子一体から母が一時的に離れるとき、理想的な状態から弾き出される(疎外)
そこから母が戻ってくることは、安心と、戻ってこないかもしれないというスリルによる2つの快を得る。前者は『快楽』、後者は『享楽』
 
・「成長してからの欲望には、かつて母との関係において安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽)を味わったことの残響がある」
 
・自分以外の誰か=第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という「感じ」が成立
こうした第三者の介入を『去勢』と呼ぶ。
「客観世界は思い通りにはならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢
 
・これを手に入れなければと思うような特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象a」という。人はそれを求め続ける。そして、それに憧れては裏切られることを繰り返すことで人生は動いていく。→これをメタ的にとらえ、欲望を滅却するのが仏教的な悟り
 
・原初の享楽には到達出来ない。対象aを転々としつつ、到達できない「本当のもの」=X(到達できない現実世界、つまり享楽)の周りを巡っている。
 
・人間は自分自身の全体像を見ることができない。鏡によって間接的にしか見れない。客観や他者によって自己イメージを作成するわけで、自己イメージとは他者である
 
・混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。
そうすると原初の幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽は禁じられる。言語習得はある意味世界を貧しくするが、想像力は無くならない。リゾーム的展開と言語的分節性は並立してる。
芸術で言えば「これはコップだから」とかで切り離さないで、様々なものをリゾーム的に近づけて化学反応させるような思考が重要
 
アイロニー的に考えても時間に限りがあるからどこかで「こうだからこうだ」としか言いようがない命題(行き止まり)に突き当たる
→成長する過程での去勢
 
・「人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいか分からない状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。」
 
・「儀礼とは去勢の反復」儀礼=ルーティンでドグマ(独断)的でしかない人間の行為や言葉のセットのこと
 
否定神学……「神は何々でないし………」といったように決して捉えられないような絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学
 
以前は人間は神には及ばない有限なものとしての有限性であったが、人間自身に限界があるとしての(死の概念)有限性=自己分析的な思考。
人間に分かっていることの背後には何か見えないものがあって、そこに向かって突き進んでいくというような人間像
 
ドゥルーズ+ガタリは具体的にアクションをしてみなさいと励ます思想。その活動ひとつひとつがそれぞれに有限に、それなりの満足を与えてくれる。さまざまな事柄を「それはそれ」として切断し、それなりにタスクを完了させていく。そういう気楽な人生を推奨している。
 
絶対的なひとつのXをめぐる人生ではなく、「人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めよう」、「無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性」
 
・「見せかけである対象aを求めては幻滅するのを繰り返しているのを自覚するだけでなくらその自覚によっても結局消えることがない根本的な享楽を見つけ、享楽的なものとしての、そこに自分の存在がかかっているような『症状』を社会生活と両立させてうまくやりくりできるようにする、という精神分析
 
・「その人の特異性―『存在の偏り』―であるような症状を、ラカンは『サントーム』と呼びます」
松本卓也「人はみな妄想する」を参照
 
22/04/28
文章の読み方において原文(西洋文法)の想像力があると読み込みやすい。
固有名詞やカマシのレトリック、表現はあくまで豆知識やお飾りにすぎない。読む上では「必要な情報だけを『科学的』に取り出してしまう」読み方がいい。それをするに当たりまず、文章を読む際にツッコまない。まずは「単にデータをまるごとダウンロードするような意識で読んで」、自分の頭で整理する(脱構築化)のはそのあと段階。
書くうえではその逆を意識すると格式高い文になるのか。
「表現の豊かさの問題として、繰り返しを避けたい、というのがある」
「お飾りを切り詰めて骨組みだけを取り出してシンプルに理解」
 
「本書は、『こうでなけらばならない』という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。」
 
22/04/29
バイトでミス
ミスをしても次気を付ければいいと思えるようになったからかほぼノーダメ
ミスをしてもそれで終わりじゃないし、終わりにさせないようにするのが個人と組織の役割なのだろうと思った。こんなとこでへこたれてちゃいけない。というのを考えたし学んだ。あと、〇〇しちゃ悪いとかカッコ悪いみたいな概念も少しずつ取り払えるようになってる気がする。そこを無くしていけば人間的にもう少し成長できるような。
人に何も言われないのが良いのではなく何か言われることを楽しむ。人にイジられるのが嫌ってのは根底にそこがあるのかも。自分の可能性を広げるためにもチャレンジ。
 
成功には偶然があるが失敗は必然。
確立された理論は再現性がある。その一部を掻い摘んだものが小手先だけの技術であり、再現性が高いとはいえない?やれることは再現性をあげること。ペップの戦術はピッチに立つプレイヤーをファイナルサードに導くこと。それ以降は選手の閃きにかける(つまり偶然性に賭ける)。夕空のクライフイズム風に言えば戦術「カオスをうみだせ」。
成功に固執すると……スタメンを固定し続けた風間グランパスの失速と崩壊。再現性のあるメソッドがあっても偶然性の高い成功に固執するとこうなる。固執することは哲学でいう「内在」的になる。
15-16のレスターはスタメンを固定したがたまたま誰も怪我をせず、たまたまビッグ6(毎シーズン優勝争いをする6つの強豪クラブ)が世代交代などの転換期で失速し、たまたまそのシーズン無風だったアザールがレスターの優勝を後押しするゴールをあげたりと、たまたまが積み重なり成功した。だから「ミラクル」レスターなのだと思う。
そう考えると再現性の高い確立された理論をもとに、最後の30%くらいの部分は偶然に任せるくらいが丁度いいのかもしれない。小手先だけの技術にはその70%を満たすほどの信頼性があるかといわれればNOだ。
 
自分の中の戦術はアップデートしていかなければならない。
 
22/04/30
企業研究に前向きでなかったのも就活のためとか〇〇やんなきゃと同じ考え方だったからだろうな。そこを自分のためにいかに変えていくか、持っていくか。結局他者の中でしか生きれないし、突き詰めれば誰かのための行動なのかもしんないけど、そこをどうやって思考を変えられるかがカギになってくるな。
メンタルタフネス
知性は死なない
暇と退屈の倫理学
勉強の哲学
の5冊がとりあえずコアになってる。それに加えてフーコーだとかももっと読んでいきたいし。
まぁ上の5冊は定期的に読んでいきたいな。
メンタルタフネスは筋トレとストレスへの向き合い方に。知性は死なないは自分の思想とか、社会に対する考え方のために。暇と退屈の倫理学は人生を退屈なものにさせないために。勉強の哲学は自分の行動指針を見つめ直させてくれるために。現代思想入門は勉強の哲学の補完と知性を広げるために。どれも重要。とりあえず筋トレも続いてる。頑張ってこ。人生を楽しいものにできるかは全部自分次第。自分の機嫌は自分で取るしかない。