22/4/17(日)~23(土)

新学期が始まったのはいいものの、履修の仕方で勘違いしている箇所があることに気づき大学四年生にして新入生が受ける用の講義を一科目受ける羽目になった。しかも対面でだ。授業における対面か、オンラインかという区別はそれまでは存在しなかった。だから、2020年から始まったこのクソみたいな期間に大学に在籍していなかった人々からすればどっちがどう違うのかということについては想像しがたいと思う。結論から言えば、学生にとって(おそらく教授や大学関係者にとっても)オンライン授業の方が圧倒的に”楽”だ。オンライン授業も大きく分けて二種類に分けられ、授業資料のみを配布して小課題やレポートの提出によって評価を決めるオンデマンド型と、ZOOMなどを用いて授業を行うリアルタイム型がある。これに関しては、拘束時間が短く、自分がやりたいときに授業を受けることができるオンデマンド型の方が圧倒的に”楽”である。また、リアルタイム型にしても学生側がカメラをオンにすることを義務付けられているか、時折学生側に何か質問されることがあるかなどで”楽”かどうか決まってくる。そのどちらもないような、つまりカメラオフかつミュート状態の場合はPCで授業ページに飛べばいいだけで、その間は何をしてても自由なので”楽”になる。総括するとオンライン授業は”楽”なのである。これを知っていれば通信制の大学に行っていたな、と思うくらいには”楽”だった。そして、二年の月日を経てそんな確変タイムは終了し、対面授業という名のごく普通の授業形態に戻ってきている。まぁこれまでが異常だっただけだ。
学校に行かなければいけないということでバイトと家の往復しかしてこなかったくらいに出不精だった私はこれを機に解消しようと考えた。手始めに学校近くのブックオフに寄ったところ、千葉雅也さんの「勉強の哲学」という本を発見し購入した。面白くて三日ほどで読み切ってしまった。
その本の主旨としては、人間というのは所属する「環境」に沿った行動をとってしまう生き物で、勉強をすることでメタな視点を持ち、環境に沿った行動から脱しようとする、しかし、勉強をすることで全く別の人間になるわけではなく、結局同じ視点のままかもしれない、ただ、それまでと全く同じではなくメタな視点を持った同じ視点になるよという話だった。自分自身の現在置かれている状況をメタに分析することができたし、いろいろ考え、実行するきっかけとなる本だった。
まず、自分について考えたこととしては、自分は他人に「何も言われない」ためになにかをやっているんじゃないか?ということだ。
他人に何も言われないように事を運ぶというのは非常に日本人的だと感じる。努力を隠し、結果で示す。何か文句を言われないようにすることが行動の動機である。しかし、そんな自分でも、褒められたい、認めてもらいたいという承認欲求があることは確かだ。何も言われないことは自分を満たすものではないだろうと思う。そして、ここでなぜオンライン授業が”楽”だったかが自分の中で合点がいった。このクソみたいなシステムは極端なまでに直接的な交流が減ったことで、課題を一方的に出され、それを一方的に提出するような「何も言われない」ことを動機としている人間にとっては、非常にいいシステムだったんじゃないかと思う。実際それで上手くいった。だが、現状うまくいっていない部分があり、それは研究活動である。研究活動とは、何か言われることで新たなアイデアや考えが浮かんだりフィードバックすることを積み重ねる地道な活動であり、「何も言われない」状態にするのはよろしくない。むしろ積極的に何かを言われようとするべきなのである。これに関しては、日本の教育体制にも問題があると思う。国語の試験は「感想を書け」という問題にすら正解不正解が存在するのは何故か。日本は察する文化だからだ。創造性よりも暗記的な学力が求められるセンター試験がたびたび批判される背景にもこのような問題が関わっているだろう(ただ、2022年度の化学の問題が高校の教科書知識ではないって話から共通一次試験というものについてはいろいろな議論がなされており、一概にどうこう言えるものでもないなと感じた)。そういった教育のもとで育った我々が私が今ぶつかっているような壁に直面するのは至極当たり前なのかもしれない。大学に入ってから、今日の授業に対して何か質問をしなさいという課題が出たとき、私はどうすれば良いのかわからなかった。質問をするという発想がないからである。文章を批判的に読むとかそういった体験はそれまでほとんどなく、どんな文章も教科書のように読んでいた。こういうのはもはや染み付いてしまっている。無意識のうちはついついやってしまっている。
他人にとやかく言われることは嫌だ。そう感じるようになったのはいつからだろうと考える。単純に怒られるのが嫌で優等生でいるためにそうしてるのかって言われるとちょっと違うんだよな。そうなると、思春期の自分の中の秘密の世界に介入されたくないって思いがそうさせてるんじゃないかと思う。本当の自分なんて他人には分からない、理解されたくもない、そんな思春期特有のものがあって、どの程度だろうと須らく他人の介入を避けるために、何も言われないための行動=その環境におけるこれはこうするもんだといった「ノリ」に合わせた行動をとるようになる。合点がいくのはこっちの方かな。つってももう思春期ではない。まぁ思春期特有のそれは今も尾を引いてるし、そこの殻を破れてはいない。だからこそ、自分の承認欲求だったり、本当は理解されたい、他人とかかわりたいといった自己実現を達成できず、それによるストレスやモヤモヤが生まれるが、そうなる度に思春期特有の思考が発動し、自分を正当化することで、自分の世界に閉じこもることで現実から目を背ける。それが自分にとっての防御策であり、どんどんこじれて抜け出せない負のループの一要素でもある。そして、今はそういう自分を俯瞰できているフェーズ。
そして、その環境の「ノリ」に合わせることを行動の動機とするクセは、私にとってもう一つ重大な問題をもたらしている。それは、〇〇やんなきゃ→でも、〇〇があるからなぁ→んで結局やらない、という環境のノリに合わせた板挟みが引き起こす負の連鎖だ。例えば私は今早朝と夜にある2つのバイトと学業、そして趣味等を並行的にやって生きているわけだが(いやいやみんなそうして生きているだろって話は置いといてね)、まず、早朝のバイトの「ために」早く寝なきゃいけない、でも学業でも何か言われない「ために」おわさないといけない課題がある、でも夜には別のバイトがあってそこに支障をきたさない「ために」早く準備をしなきゃいけない……と、負の連鎖が続き、結局何もやりたくなくなる。最後の何もやらなくなるという結末については、これらのやらなきゃ→でもあれもやらなきゃという苦しみが認知資源を消費した結果であると考えられる。しかし、問題の根本にあるのは環境の「ノリ」に合わせることを行動の動機とするクセであり、そこから逃れるためには、
①「でも」を断ち切る、即ち環境のノリに合わせてないかを俯瞰して考える。
②そもそもの〇〇やんなきゃという考えは何から発しているのかを考える。つまり、それが環境のノリに合わせるために発せられてるならそれ自体が負の連鎖を生み出している。
ということを理解する必用があるのではと感じる。哲学的に、アイロニー的に原因を突き詰めていくことでここから脱せられるのではないかと。私はここ最近(というかもっと長い期間かもしれないが)自分のために生きていることを忘れていたように感じる。もっとも趣味だったり自分の心から好きなことに関しては心の底から楽しめていたので、やはり自分のために生きることの重要性を感じた。あとこれに関しては、千葉雅也さんの現代思想入門という本にヒントとなりうる記述があった。
p67~
ドゥルーズいわく、世界は時間的であり、全ては運動のただ中にある。全ては「出来事」→本当の始まりや終わりはない。
筆者の噛み砕いた表現でいうと「全ては生成変化の途中であると考えたとき、すべてを「ついで」でこなしていくというライフハックになる。」
マルチタスク思考というか、他人のために生きることで自分が損をしてしまうというのは生きていく中で何度か見てきた。こういう言葉をみるだけでだいぶ生きるのが楽になる。
 
ここまでざっくり書いたが、ここからさらにざっくりと殴り書きしていた自分の日記というか読書などを通して考えたことをコピペしていく。
 
22/04/22
何かをする動機が他者から自己へと移るとやる気もでるし結果もでる?
自己目的的に行動する
モーニング娘。'21「信じるしか!」
誰のためじゃない 自分のためだろ
 
↑朝起きたらこのフレーズを思い浮かべる。しばらくのスローガン
 
誰かのためにやったことは身にならない
→レジュメを作るために読んだ本から得た知識はあるのか
誰かのためにが積み重なれば誰かのための時間、誰かのための日、そしてしまいには誰かのための人生になってしまう。
自分の時間を大切にしろというのはそういうこと
とにかくルーティンをこわす。今であれば生活拠点、それも負のサイクルの源泉となっている家で過ごす時間を減らす。すると家で過ごすことに対する考え方も変わっていき負のサイクルを破壊するきっかけになるのではないか。
 
22/04/23
自分はなぜ集団が苦手か
自分が他人と対比される(自分が低い立場に立つときに限る)ことが苦手なのでは?
→劣等感、ジェラシー
 
社会心理学講義 ──<閉ざされた社会>と<開かれた社会>」 (筑摩選書) 小坂井敏晶
第8講 自由と支配
 
・支配関係の消失は原理的にありえなく、社会には必ずヒエラルキーが存在。そのヒエラルキーの違いは何らかの方法で正当化。(深層的な支配の合意の源泉としてのヒエラルキー
 
・「人間は常に他者と自分を比較しながら生きている。そして比較は必然的に優劣をつける。」
 
・近しい比較対象との差こそが問題を孕む――アリストテレス 『弁論術』「羨望」第2巻十章による指摘
「妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者に対してだ。それは家系・血縁関係・年齢・人柄・世評・財産などにおいて似通った人のことだ。[……]時・場所・年齢、世の評判などで人は自分に近い者を妬む。[……]競争相手や恋敵、一般に同じものを欲しがる者と人々は競う。そのため彼らに対し必ず嫉妬心を覚える。」
 
・「平等な社会が人間を幸福にするとは限りません。比較の対象にならないほど他者と自分の能力が異なれば、羨望は起きない。生まれるのは尊敬の念です。バスケットボールのマイケル・ジョーダンや野球のイチローのような非凡なスポーツマン、あるいはアインシュタインのような天才科学者を想像すれば、それは明らかです。しかし能力が拮抗する者を前にして自らの劣等性を受け容れるのは辛い。」
 
・「異質性よりも同質性の方が差別の原因になりやすい傾向」
 
・「境界が曖昧になればなるほど、境界を保つために差異化のベクトルが、より強く作用」
 
・「明白な差は誰にも納得できる。しかしほんの小さな違いしかなければ、自らの劣等性を受け容れ難いし、優越者もわずかな優位を守るために多大のエネルギーを費やさねばならない。」
 
・「同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり、給料が少なかったりしても、それが意地悪な上司の不当な査定のせいならば、自尊心は保たれる。格差の基準が正当ではないと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないですむ。」
 
→自分はやる気がないから、始めた時期が違うから等々の言い訳で自尊心を保っている
 
・Ellemers et al., 1988 ; 1990 ; 1993)による指摘
「下位集団のメンバーが肯定的アイデンティティを持てるかどうかは、上位集団と下位集団を隔てる境界の浸透性に左右される。下位集団から上位集団への通過が可能な場合、それが不可能な場合に比較して、自らの属する集団を放棄して上位集団に自己同一化する動きがより顕著です。また同時に下位集団の成員はより強い不満を感じます。社会上昇が不可能ならば諦めもつくが、上位集団に入れる可能性が高まるにつれて期待が増大するからです。」
 
 
 
他人、それも同質的な他人との差異を受け入れるには
→そもそも比べていること、自分が優位に立ちたいと思っていることが大きいのではないか?
 
自分の有能さを他人と比べることで得ようとしている。自分の能力で集団におけるアイデンティティを位置づけようとするクセ
→そこから脱するためには
「自己肯定感」
他でもない自分自身を受け入れ、そこからスタートする
やる気が出ないのも自分、物事にとりかかるのが遅いのも自分、でもそんな自分を受け入れ、開き直るのではなく、そこからスタートする。人の良いところに目を向け、(自己否定から始まるのではなく)自分をより良くしていこうとする。
ただし、成功には偶然があるが、失敗には必ず原因がある。だから成功から学ぼうというアプローチはすべきではない。
そして、小手先の技術ではなく、自分の心を揺さぶるような本質的な考えに触れる。
自分を肯定するには、自分とはなにかを考えるうえでは
→色々なものに触れ、自分の「好き」と「何がしたいのか」を作っていく
そこに他者性はいらない。
モーニング娘。'21「信じるしか!」より
「誰のためじゃない 自分のためだろう」
 
 
 
人間は根本的に「飽きやすい」
三日坊主でもいいから記録しておくこと
p98以降
・『生政治』……人々を集団、人口として扱うような統治。内面に働きかけるような規律訓練ではなく、即物的なレベルで機能。例)移動の自粛は規律訓練でワクチン接種は生政治
 
・ワクチン反対派の心理……ワクチン政策は『生政治』であり、人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物としてあつかって、死なないようにするという権力行使。
ここで言う「死なないように」は、働いて税金を納めて国家の歯車にするという意味。そういう統治に巻き込まれたくない=自由でいたいという抵抗の気持ちが無意識にある。
規律訓練への抵抗は自粛を破ること
 
・「現代社会は規律訓練と生政治が両輪で動いている」それでいて生政治の部分によるコントロールが強まっている(喫煙所の撤去、ワクチン接種)
 
・「良かれ」と思ってやっている社会政策が、主流派の価値観を護持するための「長いものに巻かれろ」になっている
→人生の自由とは?
人間の自由を泳がせておく
 
・我々が思う個人は歴史の中で作られた個人。アイデンティティが成立したときに良いアイデンティティと悪いアイデンティティも成立してしまった
例)同性愛はあっても同性愛「者」は居なかった
LGBT支持の運動は悪い(とされている)アイデンティティを認めさせる運動。そもそも論としてどうなの?現代社会の個人のなかでのムーブメントでは、近代という構造をこじらせているだけ。
 
・古代の世界……「自己に対してその都度注意し、適宜自分の人生をコントロールしていく」=『自己への配慮』
自己本位での自己管理↔近代の人々を群れとして支配する生政治
→ここにヒントが
 
・現代と古代の違いは「やってはいけないこと」が何か。(近代の規律訓練の結果、やってはいけないことが大方決まってしまった)
 
・生政治と規律訓練の両輪の近代で「新たなる古代人」になるやり方として、「内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする」というやり方
つまり、「新たに世俗的に生きることで、日常生活のごく即物的な、しかし、過剰ではないような個人的秩序付けを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにはみ出してしまっても『それが人生なのだから』と構わずにいるような、そういう世俗的な自由
 
『二項対立的に考えない』
 
 
他人と比較してるのは「アイデンティティ
そこから逃れるには↑のような世俗的な自由を身につけることがヒントなのでは?より深く学ぶには
ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)
 
 
現代思想入門で紹介された哲学者についてはどれも面白く興味が湧いたが、なんとなく今の自分の心境に一番合ってるかなと思い、「ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)」という書籍を読み進めている。
 
また、次の週へと続く