夏ハロコン2021の思い出

本を読むには本を読めるだけの(安定した)精神状況が必要だ。そう感じたのは今月に入ってから、具体的には大学の後期授業が始まってからだ。今月になって本を読む気になれなかったし、手に取ったところでページをめくりたいとも思えなかった。そして、これは自分にとって異常なことだと感じるようになった。

 

大学内に友達のいない私にとってオンライン授業は決してネガティブなものではなかった。部屋で一人ラップトップに向かうことは全くもって苦でなかったし、いつもは一コマ90分の授業を資料を一瞥するだけで終わすことができたのはこの上なく効率的だった。そして、オンライン授業での成績評価はテストではなくレポート課題が多いため、普段であれば友達がいないので過去問なんて回ってくるはずもない私だが、この環境下ではそんなものは関係なくむしろそういった過去問の類に頼ろうとしてた人種ざまぁなんてことすら思ってた。

 

そんなこんなで効率的にオンライン授業を進めていった私は、2年の前期から3年の前期にかけて70単位を取得し、その期間のGPAは通算3.7超えだった。2年のうちはある程度モチベーションというか自分なりのオンライン授業攻略法を編み出したことでほぼほぼ時間もかけずにノンストレスかつ結果も出るというなかなか良い期間だったと思う。

 

でも3年になってからは結果こそ出たものの精神的にはあまり良い日々が送れなかった。その原因はゼミ、そして研究活動である。これは前期を終えた夏休みで「暇と退屈の倫理学」という書籍を読んで気付いた。以下はこの書籍を読んでの感想になる。

 

「退屈」とは平常時に思考の必要がないほど慣れ切った状態にある際脳の記憶をつかさどる部分が働くことにより起こる一種のトラウマのようなものらしい。ここで新たな刺激や興奮が得られると‟平常”時ではなくなり、脳の別の部分が働くことになる。すると、退屈は消えるんだとか。

なんてことない日常、だけど少し退屈だなと思うくらいが我々の本来の人間らしい生き方であり、そこで感じる退屈を紛らわす術として芸術や食といったものがある。

このような人間らしい生き方から逃れようとし(つまり、この生活で感じる退屈から逃れようとし)、仕事や勉強といった何かの奴隷になるときがある。就活を控えた学生が突然資格の勉強を「決断」したりするイメージだ。そして、こういった独りよがりな「決断」の多くは長続きしない(でなければこの世にダイエット本が次々に出版されることなどないはずだ)。

大事なのは退屈を紛らわす術を知り、それを探求し、自分の退屈を紛らわす術を自分の中に持っておくことだ。間違ってもこれを消費するようなことはあってはならない。浪費するのである。

 

この書籍では著者が消費と浪費について以下のように区別している。

浪費・・・必要を超えて物を受け取ること、吸収すること。必要のないもの、使いきれないものを前提としている。浪費はどこかで限界に達するので満足をもたらす。

消費・・・物に付与された(記号化された)観念や意味を消費する。物は記号化されなければ消費されない。消費の対象が物ではないので限界が無く満足をもたらさない。

 

そして消費について以下のようにも述べている。

消費社会では退屈と消費が相互依存している。消費は退屈を紛らわせるものだが同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。そしてこの消費と退屈のサイクルは最終的に拒絶反応を生む。

 

自分の退屈を紛らわすものを消費してしまえば、それすら退屈に感じてしまう。私は一時期、自分の趣味(ハロプロ)に対して、○○好きなら~~は見なきゃいけない・見るべきだという対して知りもしないネットの意見に支配され、自分が見たいかどうかという意志ではなく、そういった第三者の意見による意思でアイドルの映像を見た。

つまり、自分の退屈を紛らわすもの(趣味)を消費してしまったのである。これを見れば真の○○好き(ハロヲタ)だ、これを見なきゃ○○好き(ハロヲタ)じゃないといった文言や、このような第三者による他者性がちらつくとあらゆることが消費に変わってしまう。とあるグルメ漫画でラーメンの食べている客に対し、「彼らは情報を食べている。」といったセリフを放つしシーンが印象に残っている。でも今はそれが納得できる。グルメと呼ばれる人について、彼らは自分の意思で食べたいものを食べているのだろうか。それとも、これを食べたぞという気分になりたいから食べているのだろうか。

 

人間の行動に他者性がちらつくと消費に変わるということを頭に入れたうえで緊急事態宣言について考えてみると、行政のありとあらゆる要請が一人ひとりの行動を消費に変えるという恐ろしい政策だということが分かる。要請という比較的拘束力の弱い文言に何の意味があるのだろうと当初は感じていたが、一人ひとりの行動に他者性をちらつかせるという面では例え拘束力が弱かろうと関係ない。法的拘束力を持たずとしても予想以上に日本人が自粛に徹した結果からもこの効果はうかがえる。そして、この効果を自らの手腕と勘違いして悦に浸っている政治家たちもいただろう。あなた方は間違っている。我々の生活を何だと思っているのだろうか。

 

話を戻そう。先にあげた消費と浪費の構図を思い浮かべると、私は(いや、ほとんどの学生が)、大学を消費しているのではないかと感じた。私が欲しているのは「大卒資格」という観念であり、スキルや学問の探求といったものを欲していない。何度も言うが、消費は退屈を生む。消費のサイクルにいるうちはこの問題は見えてこない。私が3年前期に感じたやる気や思考力の低下を伴う精神的な不調は、単にモチベーションという言葉でかたずけることはできない。授業一つとってもそれは大卒資格を得るために単位をパスするための作業としか考えていなかった。でもそれは目的に合った手段ではある。

しかし、研究活動はそう簡単にいかない。私の大学では3年次からゼミに所属し、4年の終わりに卒論を提出するという流れだ。自主性もなく流れるまま生きてきた私にとってやりたいこと、研究したいことなど一ミリもない。でもゼミの先生はたいていレールを敷き最終的なゴールへのアシストをしてくれる。とはいえ自分のやりたいこと(そもそもそんなものはないのに)とは違うことの方向へ導かれ、最終的なゴールの方向(4年の終わりには卒論を書くんだろうなというゴール)は漠然と把握しているが、そのためには何をすればよいのかがわかっていない、わからない。ただ、そうしているうちにも時間は流れていく。そして、その時の流れに自分は乗れずに置いていかれ、不安が不安を呼び、だんだん自分が自分でなくなるような気がした。

 

そして、おそらくこれは鬱状態だと思う。あくまで自己判断だ。でも與那覇潤氏の「知性は死なない」という自身がうつ病にかかった際の状況を書いた(それ以外にもある。そして非常に面白い書籍だった。)書籍に書いてある状況の中にいくつか共感できる部分があったので恐らくそうなんだと思う。また、最近Twitter中央大学HPの研究活動についてのよくある質問という項目に研究活動になると何をやったらいいかわからない(つまり、順序立てて物事を考えるのが苦手な人は発達障害の疑いがあると書いてあった。別に発達障害と分かったところで私の日々は変わらない。むしろそういった自分の特徴について理解し、うまく付き合っていくのが重要なんだと思う。これについては2年のうちはよくできてた。2年のころには色々本を読んで自分についての取説的なものを作ったりといろいろ工夫していたし、授業にしても効率的にやりながら自分の頭を使って考えていた。だから成功できたのである。しかし、そんな成功体験の結果の部分だけが頭にインプットされたことで、過程の部分が飛ばされ、とりあえず何とかやればなんとかなる(成功するだろうという希望的観測で)、という考えに至っていた。そして、それのせいで失敗した。

 

そんな鬱に近い精神状況の中なんとか前期日程を乗り切り、その1週間後くらいのハロコンに行った。が、正直楽しめなかった。マサユメ、このまま等の心の底からアガる曲については覚えてるし楽しかったなーとは思うが全体を通してみれば100%楽しめたとは言い難い。夏休みという何にも追われず自分のリズムで過ごせる期間を経て、一時的には回復し、毎日読書だったり好きなことを楽しんだり、自分との対話をしたり、初めての遠征に行って一生の思い出となるような楽しい出来事も経験した。しかし、後期が始まるとまた再発した。そりゃそうだ。根本的なことを解決せず、ただ逃れることで一時的な回復をしたにすぎないからだ。

 

時間が解決してくれたのか、いや、違う。タイムリミットが近づいたことでようやく重い腰を上げ、自分の頭で考える作業をしたから何とかなったのだ。結局は自分の頭で考えて何かをやらないと意味がない。今までもそうだった。だけど結果のみにしか目を向けていない成功体験に浸っていたせいでそれを忘れていたのだ。よく、大学や高校は受かったところからスタートだ。という文言を耳にするがその通りだと思う。受かったところをゴールにすると今までの私のようになる。成功体験をどう生かすかが重要なのだろうという教訓。多分ひろゆきとかもそういう結果のみに注目した成功体験で物事を考えているのかなぁと思う。いや、彼は普通に自分の頭で考えることができるだろうし、どちらかというとそういう彼の志向を植え付けられた信者の方がそうなっていくのかな。

 

今は、自分の頭で考えるという作業を少しずつでいいからやっている。一歩一歩確実に進んでいくことが重要で、その一歩を今日は少しだけ前に踏み込んでみようという精神で毎日進んでいきたい。

 

勉学に王道なしとはいうがやはり我流を見つけ出していくしかないのだと思う。ハウツーに頼るばかりでは積み重ねがない。私は、自分の趣味について他者性を排除するためにSNSまとめサイト等をほぼほぼ見なくなった。そして、テレビも、特にワイドショーの類は一切見なくなった。趣味についてはこれでいいと思える。私は彼らの仲間になりたいのではない。つらい時期に励まされ、次第にはまっていった、いわば、私にとっての趣味は自分とその対象が一対一で向き合える時間なのである。自分の好きなものすら十分に楽しめなくなった時はさすがに自分自身を疑ったし、今こうして考えるきっかけの一つにもなっている。

 

何かうまくいかないことがあると敵を見つけそれを徹底的に避けるという方法は非常に簡単だ。よく、サッカーの監督でもチーム状況が悪くなると何人かの選手を徹底的に干すタイプがいる(モイーズ政権マンUでの香川真司はその被害者だ)。私はそれがいい方法だとは思えない。だからこそ、この、敵を見つけそれを排除するという安易な解決策に頼らないようにしたい。そのためにはあらゆることを清濁併せ吞んでインプットしていかなければならない。そして、それは非常に難しい。

 

何事も距離感が大事だ。中庸という言葉があるように、0か100かで考えないような人間になりたい。なんだかんだ中庸で人間は生きてきたし歴史を刻んできた。それを忘れちゃいけない。今こんな世の中だからなおさらね。